【第8回リレーブログ クリエーター編】”フルスロットル”、”CHASE H.Q.”酒匂様

【第8回リレーブログ クリエーター編】”フルスロットル”、”CHASE H.Q.”酒匂様

■略歴
1982年株式会社タイトー入社
プログラマーからキャリアスタート
世に送り出した製品は31機種。ボツになった製品は2機種。打率は高いほうだと思う。
プランナー、ディレクター、プロデューサー、部長というキャリアを辿った。

2013年株式会社たゆたう(現、あまた株式会社)入社
スマートフォン向けゲームのプロデュース、ディレクション業務に従事

■代表作
フルスロットル
CHASE H.Q.
オペレーションサンダーボルト
WGP
サイドバイサイドシリーズ
バトルギアシリーズ
など

みなさまこんにちは。タイトー時代の後輩である海道氏(かいぽん)よりリレーが回って来ました。
あまた株式会社酒匂(さこう)です。よろしくおねがいいたします。
つたない文章ですが、子供の頃からゲームにどう接して来たのかを書いてみます。


■生い立ち
物心ついたのは幼稚園年少組だったころ。
図工が大好きで同世代としては珍しいらしく、4歳ハサミを使いこなしていた。
祖父のおかげで。
祖父大戦下ビルマにて従軍していたせいで喉に銃痕があり、喋っている事がなかなか聞き取りにくかったが、
「やって見せて理解させる」という術には長けていたように思える。
ハサミを始め、いろんなツールの使い方を教わった。見て、感じて、覚えるの繰り返し。
ハンマー、ペンチ、のこぎり、小刀などなど。
小刀なんかは自分の手を何度も切って、怪我をして刃物への力加減を体感したので今となっては大したもんだと思う。
勲章として祖父から小刀をプレゼントされたのが嬉しかった。
これらの技術を5歳でマスターして、初のプラモデルに挑戦することになった。
確かイマイのマッハ号で、当時100円だった記憶がある。
大したキットではないにしろ、これを作り上げることで創る喜びを確かに感じた。
この年齢の子たちが同様に好きになったもの、「のりもの」
特に自動車鉄道大好きで、北九州市門司区という土地柄、鉄道はよく見に行った。
写真は大好きなSL(D50)とのショット。


 

■小学生時代
プラモデルが大好きで、ミニタリー、自動車、鉄道、SF、ジャンルを問わず作っていった。
今で言う素組である。特に工夫もなく、あるとすればキットの設計不良を是正するくらい。
可動ギミックがついているキットを重点的に作っていた記憶がある。
やはり、動いてなんぼである。ディスプレイキットには興味がなかった。
いくつかプラモデルを作っていく上で、問題にぶち当たる
パーツが破損してしまうのである。それをどうやってリカバリーして具現化するか?という難題にいくつも立ち向かう。
例えば、折れたピンは針金を炙って差し込めば代用できるとかね。
今覚えば、技術の応用といったことであろうか。このへんの引き出しを作っておいた事が、後々役に立つことに。
ある日、父親が「ウルトラマシン」を買ってきた。家庭用のバッティングマシンである。
この外箱に書かれていた「任天堂」という文字が、花札のそれだと理解した。
5年生スーパーカーブームが到来。
もともと鉄道自動車が好きだったので、自ずとのめり込むことになった。
時を同じくして、宇宙戦艦ヤマトのTV放映が始まる。


■中学生時代
「工芸部」というクラブに所属することになった。
名ばかりで、実態はプラモデルを始め模型製作を行うクラブである
文化祭の展示に向けて、毎月1~2キットを作成した。
ここでは素組に及ばす、塗装を体験することになる。
ここからウェザリングジオラマといった、さらに深いところに到達する。
スーパーカーブームを引きずって、1/24スケールの車の制作が得意だった。
忠実に再現するための資料収集で、ディーラーにカタログを貰いに行ってた。
エクステリアは写真資料でなんとかなるとしても、インテリアは資料が無いのである。
中学生がディーラーでカタログを貰うということに関して、マツダのディーラー寛容だった。
実車のボンネットを開けてくれたり、室内に座らせてくれたり。ここからこのメーカーが好きになる。
対極は日産「大人になってから来なさい」子供にカタログをくれることは無かった。
ある日、突然父親が「カラーテレビゲーム6」を買って帰ってきた。
これが初めて触れるビデオゲームとなった。そして任天堂がゲーム会社だと理解するようになった。
狂った様に毎日プレイしていたが、家族がTV番組を視聴しているときは見れないジレンマを感じる。
学習塾の帰りに駄菓子屋に立ち寄り、「ブロック崩し」をよくプレイしていた。
アーケードビデオゲームとして初めて触れた作品となる
これがタイトー製だったので、この会社のマークが脳裏に刻まれた。
その他にスーパーのゲームコーナーでは、「サーカス」がお気に入りでよくプレイしていたが、ある日
スペースインベーダー」が入荷。アップライト筐体の初期型移動はレバーではなくボタンで行うものだった。
このゲームがめちゃめちゃ斬新に見えたボタン移動の難易度の高さのせいで、当時はあまり

プレイしてなかった


■高校生時代
工業高校の電気科に入学し、プラモデルよりも面白いものを見つけてしまう。「電子工作
そのせいで「ラジオ部」に入学。電子工作よりはアマチュア無線のクラブであったら、無線従事者の免許を取得した
最初に作ったのはタイマーICとTTLを組み合わせたゲームで、ボタンを押すとLEDのボールが移動するといった簡単なもの。
電子工作好きの心を揺さぶる製品が任天堂から発売された。「ゲーム&ウォッチ」である。
なんとコンパクトなゲーム機なんだ!しかも時計もついているので、学校に持っていくにはピッタリだ!
アルバイトはやっていたが、趣味の楽器やレコードにつぎ込んでいるので、5700円は相当高価だったので1機種しか買えなかった。「バーミン」である。
ランダム制の無いパターンゲーだったので、画面を見ずに音だけでプレイしてカンストできるくらいやりこんだ
そして、小学生の時にハマっていた宇宙戦艦ヤマトのブームが再来する。
男子校だったので下心もありつつ、近所の女子高生とサークルを結成する。
当時としては珍しいと思うが、ヤマトの同人誌を作成した。絵心はあったので、自分はメカイラスト担当
キャライラストは当時付き合ってた彼女が担当。青春である。


■就職するにあたって
この頃は「スペースインベーダー」を始めとした空前のゲームセンターブームが到来する。
昼飯代としてもらっていた400円でパンと飲み物を100円で抑えて、残り300円でゲームを3回プレイして帰宅というのが日課になった。
中でも一番好きだったのは、「ニューラリーX(ナムコ)」。なんて奥深く、いいBGMなんだろうと。
クラッシュローラーリバーパトロールなんかも相当やりこんだ。
そして映画STAR WARSのブームに乗って黒船がやってきた。ATARIの「STAR WARS」である。
ベクタースキャンのスピード感あるグラフィック。コックピット型の筐体。なにもかもがカッコいい。
これらの体験から、ゲーム会社に行ってゲームを(物理的に)作りたいなーと思い始めていた。
工場の組立ラインに従事できれば大好きな物を組み立てられるし、休み時間はゲームがやり放題じゃないか。
3年生になり、求人を見るとタイトーの文字が。
そう、あのインベーダーの「レジャーシステムプランナー タイトー」である。
ここを一択で受けることにした。
博多まで面接に出向き面接。何を聞かれたかはもはや覚えていないが、程なくして内定が決まった。


■上京
タイトーの入社式が終わって、後に上司となる人と面談があった。
当時のタイトーは本社に技術部があり、そこの部長に問われた。
パックマンの内部構造って興味ある?」「あります!」と即答すると、技術部に配属された。
この頃に自分にとってのゲームづくりは工場のラインで配線したり筐体を組み立てたりすることを想定していたので、青天の霹靂である。


■社会人として
タイトー本社の技術部に入ってまずやったこと。
モトローラーの6809ソフトウェアマニュアルを渡されて、それを覚えること。
学生時代に友人のMZ-80PC-8001は触った事がある。学校ではFORTRANしか教えてくれなかった。
それがいきなりマシン語(アセンブラ)だと!
それでも紙にニーモニックを書いてフローを確認。
ハンドアセンブルしてマシンにバイナリを打ち込んで動作できるようになった。
最初に作ったのは、スプライトの拡大縮小アルゴリズムのシミュレーションプログラム。
入社して半年くらい経っただろうか?並行して当時開発中だった基盤(KMボード、後にハレーズコメットとして世に出る)のハードウェアデバッグ(ジャンパー飛ばし)もやった。
このあとはLCDハンドヘルドゲームのために日立の4bitマイコンを覚えたり、定番のZ80を覚えたり・・・
当時、家庭用ゲームコンソールを作る計画があったので、表参道TI(テキサス・インスツルメンツ)に、
16bitCPU TMS9995+VDP 9918のセミナーに行ったり、とにかく覚えることだらけだった。
給料や賞与も頂けるようになり、経済的にも若干余裕が出てきたので、子供のころからの夢であった、自分の乗り物」を購入した。
HONDA MBX-50である。ここから15年間ライダーとして過ごす。


■Chack’nPoP
アーケードデビュー作である。ちゃっくんぽっぷとひらがなで書くのは間違いで、正しくは英文表記
当時作成したスタッフTシャツの背中に勘亭流フォントでちゃっくんぽっぷと記載したのが一人歩きしたようだ。
東大マイコンクラブがBasicMasterで作成したChack’nChackこれを商用化したのが当該のプロジェクト。
メインプログラマーは同期のI氏。私はサブプログラマーとして従事することになった。
グラフィックはW氏というおじさんがやっていたがどうにもしっくりこず、2つ先輩のC嬢にスイッチして
ようやく可愛いキャラデザになった。彼女はタイトーを去って、サンリオで働いている。
この頃はポスターやリーフレットなどを手がけるデザイン部門が作成しており、方眼紙にマーカーで色付けされる紙媒体でのアウトプット。
ただし方眼紙はカスタム品で、8×8や16×16ドットに罫線が惹かれていた物を使っていた。
当時のゲーム制作は、プログラマーデザイナーサウンドハードウェア、この構成である。
お気づきになられましたか?企画(プランナー)が居ないんです。
よって、プログラマーが企画も兼ねることに。
コーディングの傍ら、スーパーChack’nスーパーマイタ仕様、レベルデザイン、クリアデモの演出などを行っていった。


■タイトー社員としてのキャリア
その後、企画課という部署ができたので本社から横浜中央研究所へ転勤し、そちらに移籍することになった。
企画職として初めてゲームデザインしたのは「女三四郎
外注で作りかけの柔道ゲームを渡されて、「これをなんとかする」という炎上案件だったが、即座にクソゲー認定して上司に直談判
最初から作り直さないと商品にならない
こうしてこのプロジェクトはスタートした。
当時としては珍しいギャルゲーだったのは、私の趣味以外のなんでもない。
その後に上司に振られたのがフルスロットル。初の専用筐体もので、しかも可動筐体
この頃はバイクの免許しか持ってないのでとにかく手探りだったが、バイクに乗っていて一番気持ちいいのは加速感だと確信し、そこを伸ばしていこうと考えてニトロシステムをゲームに取り入れたりした。
その後は紆余曲折あったが、フルスロットルCHASE H.Q.での成功を認められたのか、レースゲームとなると必ずメンバーにアサインされるようになった。
88年以降のタイトーのレースゲームの90%以上は、なんらかの形で関わってます。

20歳のころ箱根で

車の免許を取得してマイカーを購入したのはサイドバイサイド以降です。それまでの作品で嘘ついててすみません。

面白い文章を書くのが苦手なので、自伝のようになってしまいました。

近況:あまた株式会社( amata.co.jpでプロデューサー業を行っています。直近で携わったタイトルはSQEXさんの「アンティークカルネヴァーレ」。現場やったり営業やったりしています。

 酒匂 弘幸
よろしければシェアお願いします!

PAGE TOP