こんにちは、アスキーのパソコン誌『ログイン』出身のフリーライター、櫛田理子です。媒体によって、くしだナム子、ホンダべるの、リコなどと名乗ってきました。今回は“業界に入る前”を中心に、ゲームやメディアとの関わりという視点から、自分史を振り返ります。
ラジオへの興味がすべてのはじまりだった、かも・・
幼少期(1970年代)から親しみ、この仕事につながったものとして、まず、ラジオがあります。
就寝時に父が付けていたのをきっかけに、興味を持ちました。居住地(神奈川県)で聴取できるいろんな局のいろんな番組を聴きましたが、『決定!全日本歌謡選抜』『吉田照美のてるてるワイド』など、AM局の文化放送がとくに気に入って。新番組の『ライオンズナイター』に影響され、学校を休んで日本シリーズへ行く西武ファンに育ったりもしました。
やがて投稿にハマり、ハガキ職人のような立ち位置で、局へ出入りさせてもらっていたことも。ライターを生業とした原点のひとつはここにあるのかな。のちに(1990年代)TBSラジオや、任天堂のサテラビュー(衛星データ放送の通称)などでゲーム番組のパーソナリティを務めさせていただいたのですが、それはそれは夢のような気分でした。
任天堂のゲーム情報番組『ゲーム虎の大穴』収録風景。机にはサテラビュー機器が見えます。
さて、ラジオへの愛好心は、マイコンとの出会いへとつながっていくのですが、ここでちょっと脱線。
当時(1980年代)、若者向けのラジオ番組では、『コンプティーク』『ポプコム』などのパソコン誌や、『ソフトベンダーTAKERU』のコマーシャルをガンガン流していて。また、『鴻上尚史のオールナイトニッポン』『三宅裕司のヤングパラダイス』などゲームを取り上げる番組や、ナムコやNCS(メサイヤ)などゲームメーカーが提供する番組も出てきて、夢中になりました。
とくに、ナムコが提供していた(※)『ラジオはアメリカン』は、番組自体はもちろん、ナムコのアーケードゲームの効果音が使われたり、コマーシャルが流れたりするのが楽しみで楽しみで!(※私が聴いていたTBSラジオではナムコが提供。ネット局によりスポンサーは異なっていたと聞いています)
あまりに好きすぎて、その前後に放送されていた『五木寛之の夜』ごと大好きになってしまい、五木先生の小説やエッセイを次々と読破。2001年にその思い出を含んだエピソードを投稿をして、読んでいただいたできごとは、一生の宝物です。いけない、脱線しすぎですね。
デパートの屋上とボウリング場で培ったアーケードゲーム愛
この仕事に就いた背景として、次に挙げるのはデパートとボウリング場。
幼稚園~小学校低学年の頃は、週末に父が、平日に母が、デパート屋上のゲームコーナーに連れてってくれました。お菓子が当たるルーレットゲームや10円ゲーム、おそらく『サブマリン』『シュータウェイ』あたりであろうマシンが、霞がかった記憶のなかにあります。『スピードレース』や『サーカス』のようなビデオゲームもあり、その割り合いはだんだん大きくなっていきました。
思い出のデパートのひとつ、川崎さいか屋。2015年、閉店直前に再訪するも、屋上は閉鎖済みでした。
今思えば、娘がゲーム好きであることにポジティブな両親だったのは、恵まれていたんですね。父の当時の勤め先は東京都大田区矢口で、近くにあったナムコは特別に応援したい企業となりました。アーケードからは離れますが、環境の話として付け加えると、『カラーテレビゲーム15』や『ブロック崩し』を買ってくれた、親戚の存在もとても大きかったです。
小学校高学年~中学時代の週末は、大田区のトーヨーボールというボウリング場にクルマを停め、私はゲームコーナー、父はパチンコ、母は近くで買い物、というパターン。到着すると真っ先に『ニューラリーX』か『ディグダグ』のテーブルに座っていたかな。父がパチンコで『シャーロック・ホームズ 伯爵令嬢誘拐事件』や『ラビリンス』(※)などのファミコンソフトを取ってきてくれたことは、故人となった今も感謝に堪えません(笑)。(※この2本を取ってくれたのは、もう少し後の話と思われますが、強烈に記憶に残っているタイトルなのでここで挙げました)
高校生になっても、徒歩通学で寄り道のしようがなかったこともあり、入りづらい空気もあり、ゲームセンターにはなかなか行けませんでしたが、横浜市のハマボールというボウリング場のゲームコーナーはひとりでも気軽に寄れるムードで、よく足を延ばしました。クラスメイトとアイススケートへたびたび出かけた施設でもあり、「あとでゲームコーナーへも行こうね」なんて根回ししてたな~。
大学受験を控え、予備校へ電車で通うようになると、経路のゲームセンターへ制服で寄るまでに成長(!?)。また、ナムコ直営のプレイシティキャロット/キャロットハウス(伊勢佐木町店や蒲田店)へは、グッズの購入や広報誌『NG』をもらいに出かけましたね。高校の卒業旅行で同級生と九州へ行った際には、別行動で熊本店へ行き、『NG』に掲載されていた人情派の店長さんや常連さんに温かく迎えてもらったりもして。
そこへ至るまで……ゲームセンターの敷居を高く感じていた時期に、アーケードゲーム愛を培い、支えてくれたのが、デパートの屋上とボウリング場だったんです。最近になって、ゲームライターのパイオニア的存在である山下章さんが、トーヨーボールで遊ぶことがあったと伺いました。それまでずっと、高田馬場や巣鴨などの有名店へ足を運べなかった自分のゲーム歴に引け目を感じていたのですが、急に誇らしく思えてきました。
余談ですが、アーケードは今でも大好き。『機動戦士ガンダム 戦場の絆』に500円玉をつぎ込んでいた時期もありました。現在はコナミのメダルゲーム『アニマロッタ』シリーズがお気に入りです。
雑誌がゲームライターへの道を拓いてくれた
そして、間接的にも直接的にも、この仕事と関わるきっかけを作ってくれたのは雑誌です。
前述のラジオへの愛好心が発端となり、小学生の頃『ラジオの製作』や『初歩のラジオ』を手に取りました。BCLやアマチュア無線に関心が向き、母の内職で電線や端子などを常に目にする環境だったこともあり、電子工作もおもしろそうで。ですが、ここでマイコンの記事を目にして「ゲームセンターのゲームが家で遊べるの!?」と、興味の大半はそちらへ。
しかし、占有できるマシンは16歳になるまで入手できず、お小遣いを積極的にコンピュータ用のソフトに使う気にはなれなかったかな。数年前、実家から5インチのフロッピーディスクが十数枚発掘されたのですが、どれもタイトルはラベルに手書きで記入されていて、なかにはロゴをまねて書いているものもあり……お察しください。
お小遣いはゲームの専門誌やムック、広報誌や同人誌を集めるのに消えていきました。とにかく情報が欲しかったんでしょうね。情報収集の延長線で、セガやナムコのテレホンサービスを聞いたり、いろんなイベントに出かけたりもしました。ファミコンソフトの試遊会で、ナムコ本社や営業本部ビルにも入れたのは嬉しかったなー。
リアルタイムで購入した書籍の例(一部は業界入りした後)。最前列右はA.M.Pグループ AGAINの同人誌『究極Video Game List』。
雑誌への投稿やプレゼントの応募にも励みました。『初歩のラジオ』など、採用されると掲載誌がもらえた雑誌もあり、お小遣いを浮かす目的もあったかと。『マイコンBASICマガジン』への投稿は、業界へ入ったのちに『ファミコン通信』のスタッフや、山下章さんの目に触れることになり、嬉しいやら恥ずかしいやら。『NG』の読者プレゼントでは、篠崎雄一郎さんが原型を起こした『ドルアーガの塔』のヒロイン・カイのガレージキットが当選!
そうそう、第8回リレーブログの山本直人さんが創刊時から関わっていた『ファミリーコンピュータMagagine』の読者でもありました。ある日、誌上で“少年ゲームクリエイター募集”というゲームアイデアコンテストが開催され、応募。第2期で7人選ばれたうちのひとりに滑り込んだんです。賞品はPC-9801 UV2で、これがはじめての自分だけのパソコンとなりました。
『ファミマガ』1987年3月20日号。バンダイによるソフト化も見据えたコンテストでしたが「商品化となると難しい」との総評でした……orz。
そんなこんなで高校卒業も近づき、『ログイン』のページをめくっていると、アルバイト募集の告知が。喜び勇んで、その日のうちに書類を投函したかと思います。1988年、『ログイン』は月2回刊化を準備していて、人手が必要だったのかもしれません。大量に採用されたうちのひとりとして、編集部に通う日々がはじまったのです。
『ログイン』で雑用アルバイト“足軽”に
採用当時の『ログイン』編集部があったのは、港区南青山の大仁堂ビル。小島文隆編集長に河野真太郎副編集長という体制で、小島さんが『ファミコン通信』『MSXマガジン』も統括。みんな同じフロアで作っていて、誌面に出ている編集者をはじめ、おもしろいひとがい~っぱい出入りしていました。
私たち大量の雑用バイト、人呼んで“足軽”は机もなく、壁際に並んで電話番から原稿書きまで仕事を奪い合うサバイバル状態(笑)。でも、『ログイン』にいられること自体がハッピーだったので、もうなんでもよかったですね。しがみついているうちに、アーケード&家庭用ゲームのコーナーを担当させていただくことになりました。同期の足軽には、徳間書店『MSX・FAN』へ移り、今も業界で活躍している佐伯憲司さんがいます。
時給は500円スタートでしたが、足軽にも深夜のタクシー券が出るという、ヘンテコな時代。在籍中の詳細は、コラムの主旨から逸れますので、またいつかお話しますね。愉快な思い出、たっくさんあります。
大仁堂ビルの編集部にて、誰かが撮ってくれたポラロイド。机の書類には“88.4.26”の文字が見えます。
で、おもしろい方々に囲まれていたおかげで、ステキなことを数多く経験しました。変わったところでは、『MSXマガジン』編集部に文化放送『ミスDJリクエストパレード』の千倉真理さんがいらして。どういう事の運びか忘れましたが、千倉さんが運営するエージェントに手配していただき、イギリスのジム・ラッセル・レーシングスクールを受講する超展開に!
この頃、私はレースに熱をあげていて、レーシングカートを買ったり、F1観戦に行ったりしてたんですね(ちなみに、『ログイン』もル・マンに挑戦するマツダに技術協力していた時期です)。ですが、海外自体がはじめてで、レースの実績もないのに、いきなりレーシングスクールというのは無謀でした、バカでした。ホント、身の程知らずでした。
『ログイン』在籍中の1991年、ジム・ラッセル・レーシングスクールを受講。ドニントンパーク・サーキットにて。
それでも、こんなウソみたいな経験ができて、なんて幸運だったのかと。のちに、チューニングカーやサンデーレースの専門誌『オプション2』で、副編集長など務めさせていただいたので、よしとさせてください。
プライベートで入り浸っていたパソコン通信
同じ時期、編集部から帰るともう1箇所、入り浸っていた場所がありました。パソコン通信です。足軽の同僚にも、そんなひとが多かったですね。
私がいたのは、カプコンが運営していた大阪のローカルBBS『C&C NET』(C&Cと言っても、NECとは無関係です)。関東からホスト局にアクセスしていたため、みかか(NTT)代は十数万円にのぼり、慌てて契約したTri-P(トライピー)というサービス(※)の月間利用ランキングでトップになるほど。(※近くにあるTri-Pのアクセスポイントを経由してホスト局に接続することで、遠距離への電話料金が抑えられるサービス)
シスオペは『魔界村』のレッドアリーマーのモデルとされる伝説的プログラマー・有馬俊夫さんで、サブオペは、私と同世代のコンピュータ専門学校生。夜ごと集まるユーザーたちと、ときにリアルでの交流よりも距離が縮まるオンライン特有の濃密なコミュニケーションをとっていました。兄貴肌の有馬さんは誰からも慕われていて、私も青春時代の悩みまで面倒見てもらってました。
オフラインでも積極的に交流し、有馬さんやサブオペの子をはじめ、ユーザー仲間とよく遊びましたね。大学の卒業旅行にあたるイベントも、通う学校は違うけど、それぞれ節目を迎えていたユーザーたちと一緒に出かけたくらいです。それまでゲーム抜きで“遊ぶ”という経験に乏しかった私は、『C&C NET』のおかげで若者らしい時間を過ごせた、と言っても過言ではないかも。もっとも、カプコンのBBSだけに、みんなゲーム好きでしたけど。
とっても大切な仲間たちでしたが、私の不注意で、現在はどなたとも連絡がとれなくなってしまいました。激しく後悔していますが、現在は「あのとき楽しい時間を共有した、それが一番大事なこと」と思うようにしていて、本当にそういうものなのだと思います。もちろん、いつの日か再会できたら最高です! もし、見ていたらBEEPさんまで連絡ください。
当時のログとターミナルエミュレータ。中身を見る勇気も手段ももうないけれど、宝物。1989年に小島編集長が立ち上げたパソコン誌『EYE-COM』のラベルが懐かしい。
一方、大手のニフティサーブも利用していて、こちらでは趣味が仕事につながる経験をしました。『スタートレック』フォーラムで知り合った方々の縁で、脚本家のブラノン・ブラーガさんが来日したとき、アテンドさせていただいたんです。『スタートレック』が好きになったのは、マイコンゲームの影響もあったかと思うので、付記致します。
大学卒業のタイミングでフリーランスに
さて、『ログイン』で過ごすうちに、上司だった船田戦闘機さんをはじめ、多くの先輩が独立し、活躍する姿を見ることになりました。また、そんな先輩方や同僚、お付き合いのあったメーカーさんから仕事に誘われたり、ファミ通書籍編集部など別の部署から声をかけていただく機会も増えていきました。
その流れで、大学卒業時にフリーランスとして活動する道を迷わず選択。第1回リレーブログで忍者増田さんも書いていたとおり、『ログイン』が楽しすぎて学業との両立は難しかったですが、なんとか卒業できたのは、寛容だった哲学科の先生や学生、それに誰より忙しかったのに4年で卒業する手本を示してくれた先輩・青柳ういろうさんのおかげですね。
フリーになったあとは、『ログイン』自体はもちろん、編集部で知り合った方々に助けられ、多種多様なプロジェクトに関わることができました。比重が大きかったソフトバンク出版『ザ・スーパーファミコン』『BEEP! メガドライブ』での仕事も、元同僚からの紹介。第4回リレーブログの川口洋司さんが手掛けていた雑誌です。
変わったケースでは、古くから『ログイン』と関わりがあったミュージシャンの戸田誠司さんに、CD『熱唱!! ストリートファイターII』などで作詞に挑戦させていただいたり、上司だった伊藤ガビンさんのお手伝いで、展覧会『テレビゲーム・クラシックス』の監修に参加させてもらったりも。テレビのゲーム番組やイベントの司会などもさせていただきました。書き物ですと、ゲームのシナリオやゲームスクールの教科書なども。『ログイン』での経験や、『ログイン』での出会いがなければ、何ひとつできなかったでしょう。
1990年代前半? 千葉パルコ スペース7で開かれた『テレビゲーム・クラシックス』を、伊藤ガビンさんと監修。奥に『スペースインベーダー』の筐体が見えます。
『ドラクエ』最新作で、この仕事を選んだ幸せをかみしめる
そうして過ごしていた20代の後半に、趣味で読んでいた自動車雑誌『オプション2』で、耐久レースのチーム員を読者から募る企画があり、参加。自己紹介で「フリーライターやってます」とは言いましたが、専門はゲームですからね、数日後に仕事を請けるとは思っていませんでした(笑)。その懐の深さと采配に恩を感じています。その後、正社員として、オートバックスのフリーペーパーの編集長も経験させてもらいました。
自動車雑誌で働いたおかげで、こんなこともできました! 鈴鹿サーキットのナムコタワーにて。
結婚退職後は再びフリーランスに。現在は、ゲーム分野では『週刊ファミ通』の“新作ゲームクロスレビュー”(隔週担当)、クルマ分野では『モデルグラフィックス』の“冬目ケイの旧車GIRLS”においての実車解説などが、おもなレギュラーです。
昨年、『ドラゴンクエストXI 過ぎ去りし時を求めて』を、仕事で発売前にプレイすることができました。数日間、起きてから寝るまで延々と攻略するなかで、この職業に就いた幸せをかみしめていました。この世の中に、『ドラクエ』を遊んでお金をもらえる職業って、いったいどれだけあ るんだろうかと(笑)。 大好きな仕事ではありますが、ふと、ほかの道に進むのもよかったかなとの考えが浮かんだことも、正直、あります。でも、エンディングを見て、この道を選んだ人生が全肯定された気がしたんですよね。『ドラクエ』に夢中で、そのおもしろさを誰かに伝えたくて仕方がなかった高校時代の自分に、「夢は叶うよ」と教えてあげたいな。
(著者略歴)
法政大学卒。パソコン誌『ログイン』でのバイトを経てフリーライターに。ゲーム番組のパーソナリティなども務める。自動車分野では『オプション2』副編集長、フリーペーパー編集長を経験。現在は『週刊ファミ通』クロスレビューで、インディーからトリプルAまで新作を遊ぶ日々。私生活では、『ログイン』時代にほえほえ新井さんの企画ではじめたラジコンをまだやっていて、昨年、おばちゃんにして“フレッシュ”クラスで優勝。また、鳥さんが好きで、バードウォッチングをしたり、野鳥の保護施設でお手伝いしたりも。
櫛田 理子