【リレーブログ(クリエーター編)第2回】”スーパーモンキー大冒険”tks様

●自己紹介

みなさん初めまして!tksと申します。
前回の近藤いな氏からのバトンタッチということで記事を書かせていただきます。
現在は関西で小さな出版社を営んでおりますが、元々はいわゆる”企画屋”というヤツで、ゲーム業界の片隅で長らくお仕事させていただいておりました。今回クリエイターの自叙伝的な内容という事で、子供時代から業界入りの経緯、自分が関わった作品、そして当時の事などについていろいろ語らせていただこうと思っております。ファミコンPCエンジンなど古い話が多くなりますが(笑)お付き合いくだされば幸いです。

 

●子供時代

私の子供~学生時代は1970年代から80年代となります。
このころはアニメや特撮といった子供文化がオタク向けカルチャーとしてまさに花ざかりとなる時期でありました。
具体的に例を上げると、小学校のころは『ゴジラ』シリーズなどの怪獣映画や『マジンガーZ』などのロボットアニメに熱中し、中学に上がると今度は『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』の宇宙ロマンに憧れ、高校になると『機動戦士ガンダム』の洗礼を受け、大学では『未来少年コナン』『ルパン3世 カリオストロの城』宮崎駿監督に影響される…てな具合です。
今思うと、本当に「文化的にいい時代を過ごしたな」と思うのですが、こういう素晴らしい作品群の影響を受けまくった青少年がどうなるかというと、当然「自分でも作りたくなる」わけですね(笑)そういうわけで、アニメや映画業界に憧れをいだいて、大学もそっちの方面に進むことになります。田舎は九州なのですが、高校卒業とともに上京し、東京・江古田にある日本大学芸術学部に進学しました。この時はまさかその後30年近くも江古田に住むことになるとは思いませんでした。

 

●アニメを心ざした大学時代

大学時代は今思えばアニメ三昧でした。
学部は映画学科だったので、映像製作のイロハを学ぶとともに、いろんな映画やアニメを見まくりました。
TVアニメ以外にも、これまた宮崎駿氏が関わった『太陽の王子ホルスの大冒険』『長靴をはいた猫』『どうぶつ宝島』など東映長編の数々、『トムとジェリーの真ん中のヤツ』で分かる人には分かるギャグカートゥーンの巨匠テックス・アベリーノーマン・マクラレンやピンボードアニメのアレクセイエフなど様々な実験・芸術系アニメなど、実に『アニメの世界は多種多様なのだ』という事を知ったのもこのころです。
ほかにも、当時の東京は自主製作アニメのイベントが盛んで「アニドウ」「グループえびせん」など様々なサークルの上映会を見に行きました。その中にはあの「エヴァンゲリオン」の庵野秀明監督の作品もあったと記憶しています。
アニメ業界でのアルバイトもいろいろやりました。東映動画の撮影バイトで松本零士さんの長編アニメに初参加したり「ルパン三世」の東京ムービーで演出助手やったり。ちなみに東京ムービーのバイト先のスタジオは練馬と高円寺の間の大場通りというところにあったのですが、その付近の風景が『ルパン三世(第二期)』の最終回『さらば愛しきルパンよ』でそのまんま再現されていて、初見の時は驚くとともに懐かしかったですね。偽ルパン一味が隠れている『葉桜』の看板があるビルとか、あれ字は違いました(本物は確か「黄桜」)が、当時、本当にスタジオの前に実在してたんですよ!
あと現場で『宇宙戦艦ヤマト』のまだお元気だったころの西崎義展プロデューサーをお見かけして、そのデカさに驚いたり、東映長編の打ち上げのあと、こっそりハーロックのボツセルを持って帰ったりしたのはもう時効でしょうか(笑)

 

●ゲーム&パソコン遍歴

同時に学生時代ゲームパソコンにも熱中してました。
ちょうど『スペースインベーダー』ブームが高校のころで、ご多分にもれずゲーセンで100円玉積んでプレイしてた口です。後述しますが、当時はまさかその10年後にそのインベーダーの生みの親の方の下で働く事になるとは思いませんでした…
大学に入ると、当時の江古田は駅前に50円で遊べるゲーセンが数多くありまして、友人と一緒に授業帰りに『ドンキーコング』『スパルタンX』『空手道』など様々な名作アーケードゲームをプレイするのがお決まりのパターンでした。
中でも一番ハマったのは『マッピー』『ゼビウス』『ドルアーガの塔』『リブルラブル』といった数々のナムコ作品です。
デザインといい音楽といい、当時のナムコ作品には、他のメーカーとは明らかに違うハイセンスなイメージがありました。
『ドルアーガ』は行きつけのゲーセンに攻略ノートが置いてあって。それを読んでると、見ず知らずの小学生に質問されて、そのまま仲良くなって一緒に遊ぶとか今の時代では考えられない展開ですね(笑)
『リブルラブル』は”囲む”というゲーム性が斬新で大好きでした。私はそんなに上手くなかったのですが、友人に完全攻略したヤツがいて、1日中プレイして「ファンタジー」を出すだけでは飽き足らず、ついにカウンター暴走させてしまったのには驚きましたが、丸1日付き合った私も相当暇だったんだなあ(笑)
自分用パソコンを買ったのもかなり早い時期です。確か大学2年の時だったかな。
大学の先輩でREDFOXさんというコンピュータ好きの方がいらして、この方の影響でパソコンに興味を持ち出して、最初に買ったのがソードのM5というマシンです。

M5

ソードM5


後にタカラから『ゲームパソコンM5』としても発売されたこのマシン、いわゆる『ぴゅう太』『インテレビジョン』『光速船』といったファミコン以前に発売された様々な家庭用ゲームマシンの中の1台でもあります。
中身はCPUがZ80にグラフィックチップはテキサス・インスツルメンツの9918。ほぼMSXと同じ…というマシンでしたが、なぜこっちを選んだかというと「別売の『BASIC-G』というゲーム制作言語が凄いぞ!割り込み処理ができる!」とREDFOX氏に推されたのが理由です。 でも買ってみると、REDFOX氏はまじめに自作ゲームを作っておられましたが、私はせいぜいキャラをちょっと動かす程度で、ほとんどゲームマシンと化してましたね(意味ねー)
そして次に買ったのが松田聖子のCMでおなじみ、「人々のヒットビット」ソニーの「SMC-777」です。

777

ソニーSMC-777


これも買った決めてはREDFOX氏の「4096色中16色使える!凄いCG描けるぞ!」という一言。
確かに当時の8bitパソコンの中ではダントツに凄いグラフィック能力のマシンでしたが、私が描いたのは「うる星やつら」のラムのトレースとかアニメ絵ばっかだったので宝の持ち腐れだったかも。
でもこの「SMC-777」はゲームソフトがそこそこ充実していて、『ロードランナー』『チョップリフター』『アズテック』『黄金の墓』『サラダの国のトマト姫』『フロッピーマガジン』などアーケードゲームとはまた違った”パソコンゲーム”の世界にすごく惹かれました。
ちょうど『ログイン』などのゲーム情報誌で、パソコンゲームや洋物ゲームがさかんに紹介されてたころで、あの『ウィザードリィ』がなかなかSMCに移植されないのにやきもきした事など懐かしく思い出します(結局ウィズは今だに未プレイのまま)
雑誌といえば『遊撃手』『BUG NEWS』といったマイナーゲーム誌も思い出深いです。
「最悪パソコンゲームベスト10」みたいな今では考えられない好き勝手な特集やってましたね。
古屋美登里さんの海外アドベンチャーゲームのコラムとかも凄く好きでした。当時珍しかった女性ライター(本業は翻訳家の方だったかと)さんで”アドベンチャークイーン”として人気だった…とか分かる人が果たして何人いるのだろうか(笑)

 

●ふとしたことでコンピュータ業界へ

そんな大学時代を過ごしまして、いよいよ就職という時期になりました。バイトの流れでそのままアニメ業界入りも考えたのですが、下手に内部を知ってしまったのでちょっと考えが変わってる自分がいました。今でいうとかなり”ブラック”というんですか? 夜遅くなったら床に新聞紙引いて寝るの当たり前の現場を間近で見てたらやっぱり考えますよね。
最近こそアニメ業界の待遇改善が話題になってますが、30年以上前から「きつい、安い」業界なのは全然変わってないわけです。
というわけで、私はアニメ業界でなく、大学時代の恩師であるアニメーターの月岡貞雄さんの紹介で、「テクノクエスト」というコンピュータグラフィックス(CG)会社に入社することになります。
月岡さんは東映動画のご出身で、みんなのうたの「北風小僧の寒太郎」などで著名な方です。
この月岡さんには、先輩のREDFOX氏とともにすごくお世話になりまして。毎週のように日曜日は吉祥寺にあった月岡さんの事務所に押しかけて、映画やゲーム談義に花を咲かせていました。
「何事にも好奇心旺盛で、アグレッシブで、スタンス軽く」という月岡さんには技術以前に、クリエイターとして大事な姿勢とか考え方を、実に多く学ばせていただいたと思っております。
この月岡さんが当時日本に3社しか存在しなかったCG会社の一つ、テクノクエストに顧問で関わっておられたのですね。
私がアニメとコンピュータ・ゲームが好きという事も知っておられたので「アニメとコンピュータを足して2で割ったような職場だからちょうどイイ」と思われたのかどうかは知りませんが、いわゆるコネというヤツでほとんど就職活動もせず、1回遊びに行ったらいつのまにか入社が決まっていたという、就職氷河期を過ごした学生さんに話したら怒られそうな話ですが、そんな感じで無事就職が決まりました。
このテクノクエストが実はゲーム会社のタイトーさんの子会社だったという(ここでゲーム業界との繋がりが出てきます)
タイトーの創立者はミハイル・コーガンさんという方なのですが、この方の肝いりで設立された会社という話で。
当時(1984年)はまだCGが一般的でないころで『トロン』『レンズマン』などCGを使っているというだけでそれが興行の売りとなる時代でした。
マシンも今みたいなパソコンでなく、部屋いっぱいほどの大型コンピュータです(確かVAX11という機種でした)。数秒の映像を作るのにもレンダリングに丸1日かかるてな具合で、可能性にみちあふれてはいるものの、まだまだビジネス的には未知数なこの時代にCG会社を設立されたコーガンさんはかなり先進的な方だったようですね。
このテクノクエストで新人の私は、CGのオペレートや演出助手、制作進行など様々な業務を学ぶこととなります。
当時のテクノクエストはCMやTV番組のオープニングなどのCG映像製作の仕事がメインでした。
取引先もテレビ局やプロダクションなど、いわゆるマスコミ関係が多くて、六本木のテレビ朝日とか赤坂のTBSとかよく行ってました。なんか自分が芸能界の片隅にちょっとだけいるような気がしてワクワクする日々でありました。
そんな今思うと華やかな日々を過ごしていると、会社にある事件が起きます。
タイトー創立者のコーガンさんがお亡くなりになったのです。
それまでのテクノクエストはCG製作がまだ高コストなのと「CGって何?」っていう時代でもあったので、仕事発注がまだ数少なかったという理由から赤字だったようなのですが、コーガンさんが後ろ盾だったせいで、特に問題なし。それがコーガンさんの逝去で後ろ盾がなくなり、その赤字が問題になってくるようになります。
「CG以外に新たに収益源を見つけなければ」
そこで会社が目をつけたのがゲームです。
既にテクノクエストではLDゲームを手がけていました。
パイオニアLDCから発売された『ローリングブラスター』というタイトルがそれですが、その映像とプログラムを受注開発していたのです。
私もデバッグ等で参加しました(これがいわば開発に初参加したゲームとなります)が、このタイトルがそこそこ評判が良かったようで、次なるゲーム開発を!という話になったようです。
そのタイトルがあのクソゲーで名高い『元祖西遊記 スーパーモンキー大冒険』(FC)です。

 

●FC『元祖西遊記 スーパーモンキー大冒険』

 
社内で開発することになった新たなゲームタイトルが、なんでファミコンでVAPさん発売なのか経緯はよく知りませんが、多分親会社のタイトーからの紹介案件だったのではないかと想像します。当時タイトーにはコンシューマー開発部隊がいなかったので、「ローリングブラスター」を創ったテクノクエストに発注ということになったのでは(あくまで想像ですが)

この新規タイトルの企画担当になぜか新人の私が抜擢されることになります。
ゲーム好きで企画とか出していたせいで選ばれたのでしょうが、正直全くの未経験での仕事は大変でした。
なぜ「西遊記でRPG」になったのかも企画なのにあまり記憶にないのですが、たぶん当時『夢幻の心臓』とかのパソコンRPGにはまっていたので、その影響でたぶんそんな企画を出したら通ってしまった…みたいな事だったかと。
ちなみに『元祖西遊記 スーパーモンキー大冒険』のスタッフは企画の私を含め、デザイナー、プログラマーの3名です。
私以外のスタッフは公募でした。
集まってきたのはまずプログラマーのさん。
彼はコモドールマニアで、『ウルティマ』とかの洋ゲー大好き人間だったので、おなじく洋ゲーに興味があった私とは話が合いました。モンキーの仕様で昼夜の切替や水・食料値という要素がありますが、あれは確か『ウルティマ』のオマージュで入れた物だったりします。
そしてもうひとりのデザイナーのNさんは、もう例の件(笑)で有名な方ですね。
彼については、一言で言うとあの隠しメッセージのまんま!の人というか(笑)
あの裏技を知った時には、怒るどころか爆笑してしまいました(大体いつどこで仕込んだかは見当がついてます)
いや、性格的には温厚で人畜無害で、実にイイ人なんです。
天然パーマで小太りでいつも迷彩服着てて、飼い猫の黒猫をこよなく愛すナイスガイなんですが、◯ルノもこよなく愛しているという(笑)
彼の特に下ネタ系のエピソードについては面白い話がいっぱいあるのですが、多すぎて文字数足りないのと、彼の名誉のためにあえてこの場では割愛させていただきます。
でも仕事はきっちりしてましたよ。スタッフ3人の中では唯一のゲーム製作経験者でしたし。
ちなみにNさんがグラフィックを手がけたのは、モンキーの前が、東映動画さんから発売された『バルトロン』というシューティングがそうです。
その後、私と一緒にタイトーに出向して『Dr トッペル探検隊』とかいろいろやったあと、コナミに移籍して『エイリアンズ』とかもやってたんじゃないかな?
Nさんとは、彼が後年江古田の近くに引っ越してきたこともあって、モンキー以降もずっと交流があって、思い出もたくさんあります。
ここ10年くらいは連絡取り合ってませんが、また久しぶりに会いたいですね。
もしこの記事読んでいたら、N島さん、電話かけても繋がらないから連絡下さい!私の携帯は変わってないよ!
さて、スタッフの思い出話からモンキーの話に戻ります。
モンキーについてはもう企画としては、後悔ばかりですね。
「ゲームが好きという事と、ゲームを作れるという事は全く違う」という事を心底思いしらされた作品です。
企画とかアイデアは浮かんでも、それを現実の製品として落とし込む能力が欠けていた。
具体的には、コンテンツは用意したものの、それを入れるメモリが全然足りなかった…という事につきます。
なんせウリである数百画面にも及ぶ巨大マップ。あれだけでメモリ容量のほぼ総てを使い切ってしまって、考えていた他の仕様がほとんど入らなくなってしまったという。
当時のファミコンのメモリは キャラクター 256Kbit、プログラム&データ 256Kbit と非常にタイニーな環境で、通常であれば圧縮であるとか、様々なテクニックを使って、容量を稼がなければいけないわけなのですが、当時の我々にはそういうスキルが足りてなかったのです。
普通こういう作品は没になるのが普通です。当時、初作品が没というのもさほど珍しいことではなかったらしく、後年いろいろ薫陶を受けることになるゲームデザイナーのMTJさんと話した時、MTJさんも「最初の作品は没だった」と言っておられて、ちょっと安心した記憶があります。
でもモンキーの場合は、諸事情ありまして、

・本来没になるべき作品がそのまま世に出てしまった。
・しかもファミコンブームのせいで30万本も出荷されてしまった

というのが伝説になる大きな要因だったのでしょう。
今動画見ても「ながいたびがはじまる…」の下りからもう我ながら笑ってしまいますが、本当にクソゲーで申し訳ない!
この場を借りて、当時買っていただいた皆様にスタッフを代表してお詫び申し上げます。


スタッフ全員、当時のイベント「スーパーモンキーラリー」の会場で台上に立たされて、満員の子どもたちの冷ややかな目線にさらされながら抱負を述べるという強烈な罰ゲームをやらされたのでそれでご勘弁いただければ(笑)

 

●タイトー中央研究所の思い出

さて「スーパーモンキー大冒険」の後、タイトーは社内にコンシューマ開発部を設立し、ファミコン市場に本格参入。
私はテクノクエストから、そのコンシューマ開発部が置かれたタイトー中央研究所に出向することになります。
当時のタイトー中央研究所は横浜の綱島駅からバスで10分ほどの所にあり、自宅の江古田からは片道2時間近くかかって、通勤が大変でしたが、その苦労に見合うだけの素晴らしい日々を過ごさせていただきました。
まさに”ゲーム修行”の日々といいますか。
私のゲーム企画に関するスキルや考え方の基本は、ほぼこの時期の仕事で得たものといっても過言ではありません。
とにかくゲーム製作を学ぶについて素晴らしい環境でした。
具体的には社内に『スペースインベーダー』『ちゃっくんぽっぷ』『フロントライン』といった初期作から当時の最新作まで、ほぼ総てのゲームタイトルの企画仕様書が揃っていて、それを自由に閲覧できるというのが素晴らしかったです。
アクションゲームもシューティングもあらかたのジャンルが揃っていて、それぞれの仕様書を紐解くと「なるほど、ゲームというのはこういう事を考えながら作るんだ!」という事が一目で分かるようになってる。
まさにゲーム作りの教科書が目の前にそろってる環境なわけです。
とにかくこの仕様書をむさぼるように読みまくりました。
今みたいにネットがない時代ですし、ゲーム製作の具体的情報がちまたに存在しない(本などもほとんど存在しなかった)時期、実に貴重な情報に触れさせていただけたと思います。
開発が終了した後は、企画スタッフに一月使って、後進のために企画書をまとめるというのが義務付けられていたというのも、今思えば実に素晴らしい環境でした。
まだまだゲーム会社に余裕がある良き時代だったのです。
ただ先日、元タイトーの方に聞いたところ、この企画書群は、後年の研究所移転の際にまとめて破棄されてしまったらしく現在は現存していないらしいです。
何と惜しいことを。ゲーム史的にはすごく価値のあるものなのに。
タイムマシンがあれば、あの時代に戻って、確保しておきたいと強く思いますね。ホントにもったいない…

 

●バブルボブル・レインボーアイランドとMTJさん

さて、タイトー中央研究所で出会った人々も今にして思えば錚々たる顔ぶれでありました。
『ダライアス』『アルカノイド』を企画したFさんや、『ニンジャウォリアーズ』Tさん、『チェイスHQ』Sさん、『ラスタンサーガ』『オペレーションウルフ』のデザイナーで後年ファミ通に移られるYさん、当時まだ珍しかった女性プランナーのKさんは席が隣で、女性チームで『サーカス』のリメイクゲーム『プランプポップ』を作られていましたっけ。
考えてみると、タイトーで今でも残る有名IPの数々がほとんどこの頃に製作されていて、その開発過程を間近で見ることができたのはゲーム好きとして凄く幸運なことだったと思えます。
『ニンジャウォリアーズ』に至ってはペラ数枚のいわゆる”素案”(タイトー中研では最初にこの素案を作成して社内回覧し、好評な物がプロジェクト化されるというのが決まりでした)のころから見てますから。デバッグの時は音楽が間に合ってなくて、代わりに『ダライアス』のBGMが鳴ってました。『ダディマルク』には負けますが、それはそれで結構雰囲気合ってたような(笑)

私が所属しているコンシューマ部も、後期は『スペースインベーダー』の生みの親ことNさんが部長に就任されましたし、このころがおそらくタイトーの全盛期だったような気がします。
そんな凄い顔ぶれの中でとりわけ私が影響された方が『バブルボブル』『レインボーアイランド』『サイバリオン』などで名高いゲームデザイナーのMTJさんです。
MTJさんについては、BEEPの読者の方々には説明不要と思いますが、もう本当に凄い方で、私がタイトー中研時代に担当したタイトルが
ファミコンディスクシステム版『バブルボブル』
MSX2版『バブルボブル』
セガマーク3版『ファイナル バブルボブル』
ファミコン版『レインボーアイランド』
と総てMTJさんのオリジナル作品の移植だったこともあって、とりわけお世話になりました。
移植作業を通じて、いろいろレクチャーも受けて、個人的にゲーム作りの師匠と勝手に思っている次第です。

MTJさんとは出身大学が同じ芸術系ということもあって話が合いまして、二人とも和田誠さんが好きで画集「倫敦巴里」の話なんかで盛り上がったりしたのも懐かしいですが、MTJさんのお言葉で一番覚えているのが
「ゲームアイデアは幹と枝葉がある」
「幹になるアイデアを決めたら、それに合わせて枝葉を刈り取る」
「アイデアは出て当たり前。一番大事なのは(幹に合わせて)切ること」
という枝葉論です。
この言葉は、その後も企画を立案するにあたっての金言として、私の中で大きなルールとなっています。
そんなMTJさんの急逝の報せには本当に驚きました。
最後にお会いしたのは後年アスク講談社時代に、MTJさんの新作『マジカルパズル ポピルズ』をアスクから発売する話があって、いろいろ打ち合わせしていたころでしょうか。
当時MTJさんは溝の口に住んでいらして、打ち合わせがてらご自宅にお邪魔して、いろいろゲーム談義に花を咲かせたのが最後だったような。
結局その発売の件は立ち消えとなってしまい、お役に立つことができなかったのが悔やまれます…
この場を借りて、改めてMTJさんのご冥福をお祈りさせていただきます。

 

●アスク講談社に転職

さて仕事の話に戻らせていただきます。
前述した『バブルボブル』移植の仕事は、『スーパーモンキー』の時に欠けていたハードの知識やメモリ容量、圧縮等のスキルを学ぶにはうってつけの仕事でありました。
それらを無事こなす事が出来、次のステップで挑んだのが”オリジナル要素”です。
セガマーク3版の『ファイナル・バブルボブル』とファミコン版『レインボーアイランド』はかなりオリジナル要素が強いタイトルで、特に「レインボー」は当時タイトー社内でも「ファミコンでは再現不可能」と言われていました。
それを「こうやれば実現可能です!」と上司にプレゼンし、さらにファミコン版オリジナル要素として当時人気だった「奇々怪界」ワールド等を提案して実現できたのは自分の中でかなり自信となりました。
そんな中、また事件がありまして、所属のテクノクエストが会社解散することになり、そのままタイトーに転籍するか、退職するかを選択しなけれなならなくなったのです。
タイトー中研は遠い事を除けば、良い職場で特に不満はなかったのですが、自分の中に自信が芽生えはじめ「新たな環境でチャレンジしたい」という意識が強くなっていました。
それでREDFOXさんを通じて話があったアスク講談社さんに転職することになります。
タイトー中研での最後の日は今でも憶えてます。テクノクエスト時代からずっとお世話になっていた上司のTさんはじめ同僚のみなさんに見送っていただいて、バスで去る時にはちょっと目頭が熱くなりました。職場でしたけど、学校のような。そんな素晴らしい場所でした。

 

●PCエンジン『ネクロスの要塞』


さて、アスク講談社に移った私は、ここでようやく自分の代表作と言える作品を作ることができます。それが

PCエンジン『ネクロスの要塞』
FC『百の世界の物語』
の2本です。

まず『ネクロスの要塞』
これはアスクに移った際に、既に企画がスタートしていたプロジェクトでしたが、社内にゲーム製作経験者がいなかったため、移ってきた私がゲームの具体的内容をまかされる事になったのです。
自分にとって初の完全オリジナルになるわけで、この仕事は燃えました。
ウリの『シネマティック・ウォー・シーン』はそれまでの静的なRPGの戦闘を変革したくて提案したアイデアで、今だから言うと実は「FC『キャプテン翼』のようなアニメーションでRPG戦闘をやったら面白いのではないか?」という着想から出発しています。

再三登場のREDFOX氏が『キャプテン翼』のゲームデザイナーでして、そのころはもうフリーになられていた氏にご協力いただいて、PCエンジン、そしてRPGでの新たなアニメシステム(私らは”コンテシステム”と呼んでました)実現に挑むことになります。
そしてシナリオは冒険企画局(当時)のわきあかつぐみ(藤浪智之)氏とかつらつかさ(松野桂司)氏と共同で創り上げていきました。
藤浪さんは、今ではゲームブックやTRPGのベテランクリエイターとなられてますが、このころは上京されてまだ間もないころで『シミュレーター』という雑誌の編集者でした。
その藤浪さんの書かれた日本初?のRPGリプレイ記事『七つの祭壇』をたまたま私が読んでいて、すごく気に入っていたのです。
なので、シナリオ担当者として、藤浪さんと顔合わせして、その作者と聞いた時はすごい偶然に驚きました。
そして松野さんは今だに冒険企画局でご活躍中ですが、こちらも上京して最初の仕事がこの「ネクロス」で、アスク社内に常駐までしてもらい本当に頑張っていただきました。
この藤浪さん、松野さん、REDFOXさん、そしてグラフィックで参加いただいた「イース」で著名の元日本ファルコム山根朝郎さんとは若かったせいもあって、本当によく飲みました。
アスクがあった飯田橋や江古田の今はなき川松(日芸生ならよく知る名店)で、朝まで飲みながら、ゲーム談義やバカ話で盛り上がったものです。
山根さんとか酒場で会ってる記憶しかないですからね(笑)
普通の壁をパレットチェンジで本棚に変えてしまうとかとんでもないスキルをお持ちのまさに天性のドット屋という方でしたが、今どうしてらっしゃるのかなあ…
この頃の面子でもう一度飲みに行きたいです。

 

●FC『百の世界の物語』

そしてファミコンの知る人ぞ知る名作(?)であるらしい『百の世界の物語』
シナリオ&マップが毎回ランダムで変化し、なおかつ四人対戦できるという斬新なシステムのRPGですが、こちらは藤浪氏の持ち込み企画がスタートでした。
「「ミスティックウッド」というボードゲームをモチーフにコンピュータゲーム化したい」というのが最初だったと記憶してますが、そのまんまではアレなので、まずは自分たちなりのボードゲーム化をすることから始めて、徐々にシステムを考案していきました。
それと一緒に、当時冒険企画局が編集していた雑誌『ウォーロック』の人気記事「二つの川の物語」とのタイアップでその舞台・ユキリア世界を背景とするという事も決まりました。
「百の世界の物語」というタイトルも誰が考えたかは憶えてませんが、その記事にちなんだものだったかと。
ただこの『百の世界の物語』途中から藤浪氏が多忙のため、予定していたシナリオデータ製作が頼めなくなって、結局私がほとんど全部シナリオ製作をすることになった事もあって、結構作業量的に大変だったのを憶えてます。
システムもほとんど前例がなかったので、二転三転し、「もくてき」コマンドなんかは確かデバッグ中に「わかりにくい」という声があって急遽追加したんじゃなかったかな。マスターまであと数日とかの時期で今だったらプロデューサーに殺されそうな事やってたんですね(笑)
そんな土壇場での仕様追加とかが出来たのも、タイトー時代からずっと組んでた、名プログラマーATJさんの凄腕あってのことでした。
特にマップのランダム製作ルーチンやプレイヤーAIロジックとかも彼の能力によるところ大で本当にお世話になりました。
ゲームって基本一人では作れないですからね。よいスタッフに巡りあったら本当に大事にすべきかと。
そんな『百の世界の物語』はスタッフみんなで頑張った甲斐があって、当時のファミ通の年間表彰企画で「システム賞」をいただきました。
授賞式のビンゴ大会でビデオデッキが当たってしまったのも懐かしい思い出です。
その後「ドカポン」など類似ゲームはいくつか出ましたが、ランダム世界生成で4人同時プレイというコンセプトを完全に継ぐものはリリース後数十年経ってもまだ出ていないみたいで、そのせいか、同じコンセプトでのリメイクという話は今まで何度もいただきましたが、残念ながらまだ実現には至っておりません。
でもこの方向性はまだ大きな可能性があると思ってますし、構想もあるので、いつの日か(できれば近いうちに)実現できればいいなあと密かに思っております。

 

●その後~現在まで

さて「百の世界」の話までで既に字数が尽きてしまいました。
以降を駆け足で話させていただきます。
まず6年間在籍したアスク講談社をわけあって1994年退社した私はフリーとして様々な仕事に関わることになります。
まず90年代に多く手がけたのがCDーROMタイトルの製作です。
特に声優さんのボイスデータ集『ボイスコレクション』シリーズは、久川綾さん・國府田マリ子さんといった人気女性声優をキャスティングした初の製品で、CD-ROM売り場に声優コーナーが出来るなど、第3次声優ブームの火付け役となったタイトルでした。
このシリーズを企画から声優キャスティング・プレゼン・オーサリングまで総て完遂できたことは自分にとって更に大きな自信となりました。
そして90年台後半には、任天堂リクルートさんの共同会社・マリーガルマネージメントさんと繋がりが出来、そこの出資で、REDFOX氏や仲間たちと新会社『スパイラル』を設立することになります。
この『スパイラル』で手がけたのが、任天堂から2001年に発売されたGBC『モンスタータクティクス』です。
この『モンタク』はメイン企画はREDFOX氏で、私はモンスター設定や世界設定、マップデザインなどのプランニングを主に担当しました。
プロデューサーはあの『ポケモン』石原恒和さんです。石原さん、普段は温厚な方ですが、進捗チェックの時のボソっとつぶやくダメ出しが実に鋭くて、お会いする時にはいつも内心ビビってました。
この『スパイラル』は残念ながら『モンタク』発売後活動休止となり、再びフリーとなった私は2000年台前半『めざせ!甲子園』などのiモードゲームの企画をいろいろ手がけ、そして2007年からは『スパイラル』時代の同僚に誘われ、パチンコ製作会社に入社し、主にパチンコの企画製作に携わることになります。
パチンコは守秘義務が強くて、どのタイトルに関わったかはお話できないのですが、結構なヒットタイトルもやりました。
そして2013年に独立して、新たな仲間たちと出版社『アオ・パブリッシング』を立ち上げ、今に至るという感じです。
思えば、アニメから家庭用ゲーム、CD-ROM、ネットゲーム、パチンコと形は変わっても、常に物作りの現場に居続けることができました。
でも今は出版社の代表として、作り手のころに比べると『物作りの環境を一から整える事がいかに大変か』という事を思い知らされる毎日で、経験したことのない苦労も多いですが、考え方を変えれば「今までした事のなかった経験ができる」とも言えるわけです。
それを貴重な機会ととらえ、常にチャレンジしていきたいと思っております。
ということで弊社では特撮ゼロという雑誌を好評発売中です!ぜひ特撮に興味のある方は宜しくお願いします!

そして最後に次の方の紹介です。本文中でも度々登場していただきました、私の敬愛する大先輩で『ソロモンの鍵』『キャプテン翼』などの人気ゲームを数多く手がけられた、ゲームデザイナーのREDFOXさんです!かなり濃いお話が飛び出すと思いますのでお楽しみに!
それでは最後までお付き合いいただきまして、誠にありがとうございました。ごきげんよう!

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