【第4回リレーブログ】元BEEP!メガドライブ編集長 川口 洋司様

自己紹介

川口洋司 一般社団法人日本オンラインゲーム協会事務局長

ソフトバンクにて、Beep、BEEP!メガドライブ、Theスーパーファミコン、セガサターンマガジン、Theプレイステーションなどの雑誌編集長およびゲーム雑誌・攻略本編集部統括編集長を経て、関東経済産業局にてオンラインゲーム事業者の任意団体オンラインゲームフォーラムを設立、これを母体に2007年日本オンラインゲーム協会となり現在に至る。

少年時代に夢中になったこと

 少年雑誌が続々と刊行され、漫画がブームになった1960年代半ば

 ほとんどの少年は、『少年サンデー』『少年マガジン』の発売が待ち遠く、赤塚不二夫石森章太郎(当時)、藤子不二雄水木しげる川崎のぼる永井豪ちばてつやの漫画は、最高の楽しみだった。

 それと同じくらい熱狂したのが、『ゴジラ』『大魔神』などの怪獣映画と『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』といった怪獣物のテレビ番組。当時の少年の話題の中心は、このようなエンターテインメントだった。ご多分にもれず私も。

 こうした怪獣ブームのさなか『少年マガジン』で時々大伴昌司構成による『怪獣大図解特集』という巻頭特集が掲載されていた。

 これは、怪獣を実在の生物のように解剖図や怪獣絵巻ふうにデフォルメして表現した企画だったが、自分もやってみたいと思ったのが編集者を目指すきっかけになっている。

 20数年後この企画を真似て、『BEEP!メガドライブ』の創刊号で、『メガドラマン89』という企画を実現した。



 一方ゲームというと、当時は遊園地やデパートの屋上などに設置されていたエレメカのゲームを指していた。もちろんビデオゲームなどまだない時代。よく遊んだのは『ミニドライブ』というドライブゲームだ。当時どこのデパートの屋上にもあった。

 

高校生から大学生にかけて

 高校生になると、音楽映画にのめり込み、知り合いに映画館の息子がいて月に200本映画を観ていると自慢していたので、それに負けたくないと必死で映画を観ていた。たぶん年間200本近かったのではないかと思う。アメリカン・ニューシネマが流行っていた時代で、『明日に向って撃て!』『イージー・ライダー』などは何度も観た。

 音楽はロックを中心に聞いていて、具体的な話は割愛するが、大学を卒業する頃には、LPが100枚を超えていた。ご多分に漏れずその後ギブソンSGもどきのギターを買ってバンドを始めることになる。大学時代はバンドブームの最盛期で、大学には多くのバンドがあった。その中からその後日本を代表するような湘南系のバンドが現れている。

 大学時代はよくコンサートに行った。デビット・ボウィが初来日した時は渋谷公会堂に行き、クイーンが初来日した時は武道館に行きと国内外のコンサートにはよく行っていた。

 一方高校生の頃からミニコミ(自主制作の有料フリーマガジン&ペーパー)ブームがあって、仲間と一緒に作り、喫茶店等に置いてもらっていた。私は、表紙のイラストを描いたり、音楽や映画評論みたいなものを書いていたが、儲けようなど誰も思っていないので当然原稿料はない。

 大学4年の最後の頃、知り合いの伝手でテレビ局でADの仕事をすることになった。萩本欽一のバラエティ番組でAD見習い的な雑用係をしていた。編集室へのビデオテープの搬入、タレントや番組スタッフの弁当の手配、出演者の送迎など仕事は実に様々で拘束時間も長かった。番組の編集作業をじかに見ることができたことは、貴重な体験だったと思う。

 隣の班は「8時だョ! 全員集合」だった。全員集合チームのADさんと知り合いになり、台本を見せてもらったり、収録の話を聞かせてもらったりした。この仕事のお陰で大学の卒業が2ヶ月遅れてしまうのである。

 この頃デパートの屋上やショッピングセンター、ボーリング場などにピンボールが置かれるようになり、たまにプレイしていた。バリーなどの海外のメーカーのマシンに交じってセガのものもあったと思う。あまり楽しい思い出がないのは、たぶん楽しむだけのスキルがなかったからだ。この頃もビデオゲームはまだない。

 

ビデオゲームがやって来た

 人より遅れて求職活動をしたので時間がかかったが、法律関係の出版社に何とか就職できた。

しかし、あまり長続きしなかった。

 この頃流行ったのが「ブロックくずし」こと『ブレイクアウト』である。喫茶店や定食屋にテーブル筐体が置かれていたので、多くのサラリーマンは昼食時競うようにゲームをプレイした。私もその一人だった。どこの喫茶店に行ってもだいたい「ブロックくずし」が置いてあり、ランチ時は会社の仲間同士で点数を争う光景がよく見られた。

川口 洋司

 このゲームのお陰で一般の人がビデオゲームというものを理解したが、数年後『スペースインベーダー』が大ブームとなり、テレビや雑誌が取り上げてくれたお陰でゲームの人気はしばらく衰えることがなかった。

 「ブロックくずし」のプレイヤーは大人が多かったが、『スペースインベーダー』は、大人から子供に至るまで幅広い人達がプレイしていたと思う。

 『スペースインベーダー』の大ヒット後喫茶店は言うまでもなく、商店街の店舗の空きスペースなどにもテーブル筐体が置かれ、後のゲームセンターのはしりのような店舗が街に登場した。新宿や渋谷にはシグマやタイトー系の大型店舗があった。

 私は仕事帰りに、そういう店舗に寄って、『バルーンボンバー』『平安京エイリアン』『カーニバル』『ギャラクシアン』『シェリフ』『ミサイルコマンド』『ヘッドオン』『パックマン』などをプレイしていたが、当時ゲームは音楽や映画と同様に単に趣味のひとつでしかなかった。

 また、ピンボールとの付き合いも続いていて、中でもバリーの『パラゴン』はよく新宿のゲームセンターでプレイしていた。後にこのマシンを表紙にした本を作ることになる。

 

コンピュータとの付き合いが始まる

 出版社を辞めて、しばらく編集の仕事を探していたが、某新聞社で週刊住宅雑誌を創刊すると聞いたので面接試験を受け、編集制作の会社に就職することになる。江川、原、中畑などが表紙の雑誌だ。

 編集制作会社で仕事を始めたものの、紙の雑誌の編集とはいえ勝手が少し違っていた。コンピュータを使って編集作業を行うというのである。

 当時リクルートが国内で初めてコンピュータ編集で『週刊住宅情報』という1,000ページの雑誌を毎週発行していたが、その編集制作メンバーが新聞社に似たようなシステムを提案し、週刊の住宅情報雑誌を作ることになった。1980年代が始まったころだと思う。

 私は、編集進行管理を担当したが、仕事の内容は日本ユニバックのMAPPER6というオフィスコンピュータ(オフコン)を使って編集台割(雑誌の設計図のようなもの)を作るというものだった。日本語フォントなどない時代だったので、漢字一字につき四桁の数字を組み合わせて文字を作りながら1ページずつデータを入力し、台割を作成していくのである。今ではエクセルを使えば1人で済む仕事だが、この作業担当者だけで数人はいたと思う。

 やがて編集進行管理部署の責任者になり、部下を抱えるようになった。その中の一人が、友人がアスキー近くのマンションを借りて数人でパソコンのゲームを作っているという話をした。

 たぶんPC-8801のゲームを作っていたと思われるが、当時パソコン(マイコンと言っていた)はあまり普及していなかったので、ゲームを作っている人がいるということ、しかもなかなかいい売り上げをあげているということが理解できなかった。

 

パソコンの時代がやって来た

 週刊の住宅情報誌の売り上げが低迷し、時間的に少し余裕ができたころ、新聞社系列の広告代理店の仕事もやることになり、業務のスケジュール管理でPC-9801を使うようになる。一般向けのビジネス用ソフトがない時代、大塚商会がビジネス用ソフトを企業向けに提供していたのでそれを使っていた。オフコンは、当時大容量のデータを電話回線で日本ユニバックに送信して蓄積していたが、利用できる時間が決まっていて不便だった。

 こうした経験から、パソコンで大容量のデータが扱える時代になったらもっと仕事がはかどるんじゃないか、いつかはそうなるだろうと漠然と考えながら仕事をしていた。

 書店では『月刊アスキー』『I/O』などのパソコン雑誌が売られていて、時々読んでいた。

 そんなある日、住宅情報誌編集者の一人がソフトバンクという会社が編集者を探しているようだと話してくれた。自分の経験を生かし、パソコン雑誌の編集をやってみたいと思っていたので、そういえばソフトバンクという会社の雑誌も書店にあったなと思い、後日連絡をして人事担当者に会うことになる。そして入社

 入社後配属されたのはパソコン雑誌ではなく、『Beep』編集長付きという私一人だけの部署だった。

 『Beep』を知らない人も多いと思うので少し説明をしておくと、国内で初めてのビデオゲーム雑誌で、アーケードゲーム、パソコンゲーム、テレビゲームなどの情報を掲載していた。1985年『ス―パーマリオブラザーズ』が大ヒットする前、1月の創刊である。

 私はその部署で、『Beep』編集長のTさんからCAI(computer-assisted instruction/コンピュータを使って学校で教育を行うコンピュータ支援教育)雑誌の企画書を作るように依頼された。パソコンに関わる雑誌なので快く引き受けた。

デスクは『Beep』編集部の隣である。『Beep』の編集部の傍には、返本が山積みになっていた。

 当初仕事は企画書を書くだけだったので、『Oh! HitBit』というMSX雑誌の最終号も手伝っていた。ソニーのMSX担当部署の課長は、社長の息子さんだった。

 『Oh! HitBit』編集部には、『ドラゴンクエスト』のサンプル版があったのでプレイしてみたが、ファミコン版とは違ってスクロールがぎこちないのは驚いた。

 新雑誌の企画は、会社の経営者からなかなか承認されず、修正バージョンを作る日々が続いた。

 そのうち会社が九段に引っ越したので、居場所も少し変わって『Oh! MZ』や『Oh! FM』の編集部の近くになった。お陰で両編集部の人達と知り合いになり、後日発売前のx68000『グラディウス』を見せてもらうことになる。

 

『Beep』の編集長になるまで

 新雑誌の企画がなかなか進まなかったので、『Beep』の手伝いや書籍の企画を作っていたある日T編集長に連れられて大鳥居のセガという会社を訪ねることになる。

 訪問したのは、大鳥居にある新社屋ではない2階建ての社屋だった。名刺を交換した広報宣伝部長から、うちはメディアがあまり来ないからよろしく頼むよと言われたのがきっかけで、後日マークⅢ&マスターシステムの攻略本『セガ・ハイテク図鑑』の企画を持ち込むことになる。

 このセガの攻略本シリーズは、確か5巻まで続いたと思うが、編集者は私一人である。このシリーズはそれほど売れなかったが、ここからセガとの深い付き合いが始まることになる。

『セガ・ハイテク図鑑Vol.3』 の表紙とゲーム攻略ページ。1988年刊。(奥成氏提供)

 書籍の企画は、自分が好きなピンボールの本や細野晴臣さんと鈴木慶一さんの対談が入った本を作っていた。ピンボールの本、『ピンボールグラフィティ』は、すぎやまこういちさんや村上春樹さんに執筆いただいたが、TPO(Tokyo Pinball Organization)の皆さんには多大なご協力をいただいた。今でも続編を作りたいと思っている。

 ちなみに『Beep』でピンボールの連載があったが、写真はすべて私とカメラマンがタイトーの海老名工場や都内各地のゲームセンターに行き3ヶ月かけて撮影したものである。

 最終的にCAIの雑誌企画はなくなってしまうが、その原因はT編集長の退職である。

 その後副編集長が編集長になったもののほどなく辞意を表明。その原因は、ファミコンの大ブームに乗り切れず、「Beep」の約半年後に創刊された『ファミリーコンピュータMagazine』や約1年半後に創刊された『マル勝ファミコン』『ファミコン通信』というファミコン誌に発行部数で抜かれて低迷し、厳しい経営状態になっていたからだ。

 こうした社内外の状況下、私に編集長の打診があった。当初予定していたパソコン雑誌ではなくゲーム雑誌、しかも編集長だ。引き受けるにしても、『Beep』の再建か休刊かという問題をまずはクリアしなければならず、問題山積の状態からゲーム誌のキャリアが始まるのだが、その後自分でも覚えていないくらいゲーム誌を企画し、何誌もの編集長をやることになるとは夢にも思わない。

PC-8801でゲームをプレイし、PCの下のビデオプリンタで画像出力しているところ。左側に大日本校了紙を入れる袋があるので、たぶん校了時の写真差し替えをしているものと思われる。1980年代末ごろの『Beep』の時代。

編集部高輪時代 『BEEP!メガドライブ』か『Theスーパーファミコン』の校了時。編集長の最終チェックのためモニターの上に校了紙が山積みになっている。校了時は、食事の時間もままならないため食事をしながら校了しているところ。1990年初めのころ。

『BEEP!メガドライブ』

 

あれから30年以上の月日が流れて

 1990年末ドリームキャストパソコンのオンラインゲームに仕事で関わるようになり、やがて関東経済産業局主催のオンラインゲームセミナーを手伝うことになる。ブロードバンド時代のIT&コンテンツベンチャー企業支援事業の一環だが、そのうちセミナーに参加するベンチャー企業の情報共有の場のようなものを5~6社の若い社長たちと作った。その中から後日スマートフォンゲームのトップ売り上げの会社やゲームもサービスする国内最大のソーシャル・ネットワーキング・サービス会社が生まれた。

 こうした会社が参加する任意団体のマネージャー的なことをしているうちに市場が拡大し、2007年任意団体はJOGAとなり現在に至っている。

 私の場合、1980年代中期8ビットゲーム機アーケードゲームパソコンゲームに始まり、16ビット、32ビットのゲーム機を経て、パソコンオンランゲームスマートフォンオンラインゲームに至るまでの30数年間仕事としてあらゆるゲームに関わってきた。レトロゲームと呼ばれるものの大半は、かつての仕事の対象であり、思い入れのあるものばかりだ。

 ゲームやゲーム機のほかにも、仕事で使っていたパソコン、3.5インチFDドライブを搭載したSMC-777、赤のHitBit HB-F1、プラズマディスプレイの東芝J-3100、日々の業務で使っていたPC-9801RX、編集部でDTPのオペレーションを行っていたMacintosh II(ソフトバンクは1990年代の早い時期からDTPを採用していた)などどれも愛着がある。

 

モノではない人のゲームの歴史

 ゲーム史に名を留めているゲームやゲーム機は、今でこそ大ヒットしたと過去形で言うことができるが、発売と同時にいきなり売れたわけではない。ゲームがビジネスである限り、どんな商品も社内外の様々な人たちの努力と協力があって広く認知され、商品がより多く店頭に置かれ、結果的に大ヒットしたのである。長い間業界にいるとこうした事情がよく分かる。

 例えばプレイステーションは発売前、SCEがゲーム業界で実績がなかったため前評判がいまひとつで、ゲーム会社はもちろんのこと出版社も積極的に関わったわけではなかった。私が会社に出版の提案をしたときも反対意見が多かった。

 その後プレイステーションは、社内の販売営業広報宣伝ゲーム開発サードパーティー担当など担当者の努力外部の協力者のサポートがあり、それからがうまく結実し、ゲーム機の性能も相まって大ヒットした。そのほかのゲーム機やゲームタイトルも同様だと思う。

 雑誌編集を通してゲームに関わるようになり、多くの業界関係者とお付き合いをしてきた。ごく一部の人は、今でも時々メディアで取り上げられているが、そのほか大勢の人たちは、ゲームの歴史の中に埋もれようとしている。当時の関係者の皆さんは定年退職や転職などで業界を去り、中には亡くなられた人もいる。

 ゲームやゲーム機というモノの背景にある当事者たちの業績や足跡、人のゲームの歴史を何とか残したいと思い、「ゲームビジネスアーカイブ」というトークライブを去年から数ヶ月に一度開催している。イベントを動画と音声データで収録し、テキスト化してアーカイブしていくというプライベートな活動だ。

 トークライブは、業界の知人たちと、たいした告知をしていないにもかかわらず参加いただいている来場者の皆さんに支えられて、赤字にならない程度に何とか継続できている。

 今ではゲーム業界で同世代の知人はあまり残っていないが、本職もプライベートも求められる限りは微力ではあるが続けたいと思っている。

 次回は、女性のPC&ゲーム誌編集者としては最もキャリアのある北根紀子さんだ。トークライブでは毎回受付をお願いしている。よき協力者である。

 

 

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