【第3回リレーブログ】元ゲーメストEX編集長 岩井浩之様

8歳にして悟った、越えられない壁

僕が産まれたのは、人類が月面着陸を果たすよりも半年前の1969年。両親が自営業の共働きだったため、「玩具は買ってやるから、一人で遊んでいろ」と放置され、テレビアニメを片っ端から観て育ちました。

そんな僕がゲームと出会ったのは、8歳の時に買ってもらった東芝TVG-610(エポック社「システム10」OEM)。画面左右のパドルでボールを打ち返すゲーム(ラケットゲーム)しか遊べないシンプルなゲーム機でしたが、「自分の操作がテレビの中の物体に関与できる」ことが新鮮で、毎日夢中になって遊びました。

でも、ラケットゲームは対戦ゲーム。友人たちの中では敵なしだった僕ですが、仕事や家事の合間を見つけてたまに対戦してくれる母親にだけは、どうしても勝てない。「こんなに練習しているのに、なぜ勝てないんだろう? 違う練習方法を試すべきなのか?」そんな自問自答を繰り返す日々を、8歳にして味わうことになりました。

次に買って貰ったのは、任天堂「レーシング112」。縦スクロールのレースゲームです。このゲームでも、デパートの屋上で対戦したエアホッケーですら、母親にはどうしても勝てませんでした。

この「子供が相手だからって、絶対に手を抜かない」母親がいたからこそ、僕のメンタルは強くなれたのかもしれません。

 

人生初の攻略記事

そんなゲーム好きとして育った僕が、クラスメートから知った聞いた噂話。「駅前の喫茶店に、凄いゲームが入荷された」と。

それまで一度もコーヒーを飲んだことがない僕が、母親に頼み込んで連れていってもらった喫茶店。しかし『スペースインベーダー』初プレイはコツがわからず、数分で撃沈。

「こんな短時間で、100円が消えた…」確かに楽しかったけれども、週刊少年ジャンプが150円だったこの時代に、100円玉が数分で消えたことは小学生だった僕にとって衝撃でした。そのショックで、暫くは『スペースインベーダー』から遠ざかることに。

それから半年ほど経った頃、僕が住む下町にもゲームセンターが開店し、1プレイ50円という価格破壊が起きました。「これなら!」と挑みましたが、どうも上手くならない。ステージ1すらラスト1~2匹になると速い敵に弾を当てられず、ゲームオーバーになってしまうのです。

その日も悔しさを感じながら席を立つと、僕の次には順番待ちしていた20代らしきサラリーマンがプレイ。彼は、軽々とラスト1~2匹に弾を当てていました。「僕と、何が違うんだろう?」そう疑問に感じた僕は、彼のプレイを観察することにしたのです。

そこで知った、テクニックの数々。当時は名前を知りませんでしたが、名古屋撃ちレインボー300点UFOなど。そのサラリーマンに話しかけることはできませんでしたが、「画面を見てわかることだけでも…」と、気付いたことは片っ端からノートにメモ。小学校の下校後は夕飯の時刻までずっとゲームセンターに入り浸り、ひたすら人のプレイを観察する日々が自然と始まりました。

帰宅後は、そのメモを見直し。重複している部分を省き、情報を並び替え、より精度の高い情報にまとめていく作業。そうして得たコツを踏まえ、僕自身も検証のために週に1~2プレイずつ。どんどん上達していく自分の腕前が、楽しいの何のって。

そんな僕の腕前はすぐにクラスメートたちに広まり、他学年の子供たちからも「攻略法を教えてくれ」と懇願されるように。あまりに依頼が多くなったため、レポート用紙に清書した攻略メモをコピーして、実費で配ることにしました。

まだコンビニがなかった時代。コピー機は文房具屋さんのレジ横にしかないばかりか、料金は現在よりも圧倒的に高額な、モノクロ1枚50円。ゲームのプレイ料金と同じ金額を出して攻略メモを買うんですから、みんな『スペースインベーダー』が上手くなりたかったんでしょう。僕はA4コピー1枚にすべての情報が収まるよう、できるだけ情報を洗練し、整理して詰め込む作業を心掛けました。この時点から僕は、「ゲームの攻略情報を売ってお金を稼ぐ」という仕事を始めていたのかもしれません。

この攻略法コピーは先輩から後輩まで、たくさんの生徒が買いに来ていました。僕の1学年下で同じ小学校に通っていた、ゲームクリエイターの故・飯野賢治さんが買ってくれたかどうかは、結局聞けず終いでしたけど。

 

ゲームで孤立もしたけれど、僕はげんきです。

時は流れ、両親の勧めで私立中学へ進学したものの、僕のゲーム好きは何も変わっておらず、暇さえあればゲームセンターへ入り浸る日々。やっていたゲームは『ゼビウス』『マッピー』『フロントライン』『ハイパーオリンピック』辺り。

「ゲームセンターは不良の溜まり場」と言われ、ファミコンすら発売していなかった時代だけに、ゲームセンターで中学生や高校生にカツアゲされたことも二度ほど。そんな場所へ来てくれる友達がいるわけもなく、「ゲームが趣味」という僕は学校で孤立しました。

そんな僕にできた、たった一人の友人。彼はパソコンゲーム好きで、『マイコン』『I/O』等のパソコン誌をたくさん買っていたのです。当時、僕は小遣いのほぼ全額を『ゼビウス』などのアーケードゲームにつぎ込んでいましたが、友人から「パソコンを買って自分でゲームを作れば、お金がかからない」と勧められ、一気にパソコンに興味を持ちました。

パソコン雑誌の記事を読んでいると、「ゲームを作るならソード電算機のm5というホビーパソコンが安価で高性能」という情報をゲット。それ以来、放課後や夏休みは両親が経営している店を手伝って小遣いを増やし、中3の秋(1983年)にはようやく手に入れることができました。

m5についてはちょうど、BEEPさんのサイトにもコラムが掲載されていました。

ソード/ゲームパソコンm5シリーズとは

それからは毎日、BASIC勉強の日々。パソコン雑誌に載っているソースコードを入力しては一部を書き換えて動作を確認する…という勉強スタイルを1年近く続けました。

掲載されているソースコードのミスを見つけた時は、その度に月刊テクノポリスなど、雑誌編集部へ「行番号280行のIF文が違うんですけど…」みたいな電話をしていました。鬼の首を取ったように電話をしたわけではなく、単に僕以外の読者が問い合わせをしてきた時に編集部が対応できるように、という気持ちが一番。もちろん、「編集部の人とお話をしてみたい」というミーハー心もありましたけど。

そして1年後、そこまで培った技術を詰め込み、どんなゲームにも似ていない完全オリジナルのゲームを完成させました…が、どうも面白くない。仕方なく、友人宅で遊んだパソコンゲーム『ハイドライド』の戦闘部分だけを試しに作ってみたところ、かなり面白い。「ああ、僕にはセンスがないんだ」この時点で、僕は自分のゲームクリエイターとしての可能性を諦めざるを得ませんでした。

それからも、簡易コピーゲームを作る手は休めませんでした。だんだんと作るゲームが高度になっていくと、スピードやメモリの問題に直面。必要に迫られて、Z80マシン語を独学し、ハンドアセンブルしていました。

それらの制作技術を活かして、『ドルアーガの塔』『グロブダー』『ドラゴンバスター』など、自分が好きなゲームの簡易コピーゲームを量産していった僕。高校進学後にできた親友(後にアルカディアというゲーム雑誌で編集長を務めた)S君に自作ゲームを遊ばせるだけでは飽き足らず、「全国のm5ユーザーに、このゲームを届けたい」と、ユーザーズクラブを結成。僕が会長、S君に副会長を任せ、定期的に会報誌を発行したり、自作ゲームをカセットテープにコピーして実費配布していました。

※このユーザーズクラブの会員だった小池利幸さんは後にナムコにご入社され、『エースコンバット』1~3を担当。転職後も、超メジャータイトルに何本も関わられています

※ユーザーズクラブの活動はソード電算機の方々にも伝わり、ソードさんがショールームを閉じる時には、周辺機器やソフトなど、展示品をすべて僕の自宅へ寄贈して下さいました

 

セガSG-1000との意外な出会い

そんなある日のこと、僕をパソコンの道へ引き込んだ友人が「僕はファミコンも富士通FM-7もシャープX-1も持ってるから、セガSG-1000はもういらない。岩井君、欲しいならソフト付きで売るよ?」という甘い囁き。金額交渉の結果、ソフト付き1,500円という破格値で譲って貰えることに。その日を境に、僕のゲーム制作はいったん小休止を迎えることになりました。

本体と一緒に買った『コンゴ・ボンゴ』『チャンピオンベースボール』『ジッピーレース』は日々やり込みましたが、自分でも『ピットフォールII』を購入。このソフトとの出会いが、僕の人生を大きく変えたのです。

「このゲーム、マップの位置は固定なのか」そう思ったらマップを手書きせずにはいられなくなり、マップが完成した暁にはタイムアタックの日々。『スペースインベーダー』以来、久々に攻略記事を書きたくなった僕は手書きのマップを清書し、セガSG-1000の連載コーナーがあった月刊コンプティーク(角川書店刊)へ投稿。

毎月のように攻略記事を投稿していたら、ある号の記事中に「岩井君、いつも攻略記事を送ってくれてありがとう」と書かれているのを見て、飛び上がるほど喜んだのを覚えています。

※時期的には、麻宮騎亜さんの連載漫画『神星記ヴァグランツ』が始まった頃です

 

セガが導いてくれた、商業誌デビューへの道

それから少しして、家の電話が鳴りました。僕の攻略記事を読んで下さった編集さんからの紹介で、ゲーム攻略本を執筆しないかというお誘いです。当時、高校2年生(16歳)だった僕は二つ返事で承諾しました。

執筆することになったのは、『セガ(秘)ハイテク集』という、セガSG-1000とセガ・マークIIIのゲームだけを扱う、「セガ初の攻略本」。集められたライターは、僕のほかに同年代の男性が3人。掲載タイトルは新作を中心に編集さんが選んだので、ライター同士で相談し、担当するゲームを選んでいきました。僕が担当したのは、以下のタイトルです。

『テディーボーイブルース』

『サテライト7』

『不思議のお城 ピットポット』

そして、

『ピットフォールII』

ゲーム雑誌や攻略本を買って読んだことはあっても、作るのは初体験。編集さんが描くラフレイアウトに意見出しをして写真枚数や文字数などを詰めていき、写真撮影と原稿執筆をしていくという流れでした。

当時はゲームの画面をブラウン管に映し、暗幕を被って一眼レフカメラで撮影していました。テキパキとゲームを進めていくと、編集さんから「マップを暗記してるんだね。凄いな」って褒められて、嬉しかったことは未だに忘れません。

原稿は、僕らが書いた文章を編集さんが読んで、わかりづらい部分を僕らに質問。それらを補完する…という方法で制作していきました。

そうして、僕の初書籍である『セガ(秘)ハイテク集』は無事に発行され、僕の自宅近くにある書店でも並べられることに。

発売日「誰か買ってくれたら、話しかけて握手したら喜ばれるかな?」ドキドキしながら、平積みされている書籍を見ながら立ち尽くすこと数時間。結果、僕が見ていた間には1冊も売れず…当然ですけど。


 

ゲームという仕事と、大学進学

僕には、前出の2人しか友達がいませんでした。野球部に所属していましたが、後輩たちから「ファミコン大魔王」と陰口を叩かれていましたし、担任からは「ゲームばかりしていると、ろくな大人になれない」と嫌味を言われる日々。だからこそ、僕は心に誓ったんです。「いつか、ゲームを職業にして、こいつらを見返したい」と。

そんなある日、僕が書籍を執筆したことが朝日新聞記者の目に留まり「甲子園を目指す高校球児がパソコンマニア」という切り口で、誌面の半分近くを使った大きな記事に。その新聞はたくさんコピーされ、学校中の掲示板に張り出されました。

それからというもの、先生達から「岩井君すごいね」と言われるようになり、一躍学校内で有名人扱いとなりました。でも、一方で弊害も生まれていました。それは「セガ(秘)ハイテク集」2巻目の制作中、自分の成績が明確に下がっていることに気付いたのです。中学3年では学年3位だったのに、高校3年の1学期では300人中で200位以下。

授業を受け、野球部の練習をこなし、夜に編集部へ。ゲームをやり込み、写真を撮ってから深夜に帰宅し、朝まで原稿を執筆。まったく眠らずに風呂に入り、野球部の朝練へ…という生活の繰り返し。すると授業は眠くてたまらず、授業中に起きていられない…という生活では、成績が上がるわけもなく。

ですから高校3年生となり、周りの友人たちが大学受験に備えていく中、僕は大学進学を諦める決断をしました。「大学へ行かず、何をするか?」「趣味のゲームプログラミングを活かしてプログラマーになるか?」「でも、ゲームのブームが短かく終わってしまったらどうしよう?」「ならば、システムエンジニアを目指すか」そうして決めた、専門学校への進学。

今にして思えば落ちこぼれの逃げ道でしかなく、結果後悔することになるわけですが、当時は「これしか選択肢がない」という程に追い詰められていました。そう、アムロがサイド7でガンダムに乗り込んだ、あの日の決断のように。

 

スタンド使いは惹かれ合う

専門学校の入学式を待っていたある日、愛読していたパソコン雑誌を読んでいたら、編集部への見学を受け付けているという記事を発見。「編集部に遊びに行けて、僕が作ったゲームも見てもらえる。その場で褒めて貰えたりして…」そんなドキワク感で編集部へお邪魔した僕。その時、僕のゲームを見て下さったのは、今回僕へバトンを渡して下さった松井さん彼は当時18歳。僕は17歳)でした。

「…どれも出来がいいんだけど、あまりに元のゲームに似過ぎていて、これじゃあ雑誌に掲載できないなぁ」困った表情で返事をする松井さん。そりゃそうですよね、アーケードゲームの真似なんて、雑誌に載せたらメーカーからクレームが来そうです。

「こんなにも完成度が高いゲームを、なぜ雑誌に掲載してもらえないのか?」当時の僕は納得できぬままトボトボと帰宅。「市販のゲームは面白いのが多いし、僕がプログラミングをしなくてもいいかな」なんて思うきっかけとなりました。

…が、この数か月後には、見学した出版社で働くことになるんです。縁というものは、わからないものですね。

 

「お金よりもゲームが欲しい」

専門学校へ進学し、COBOLやC言語などを学びつつ、銀行システムなどを開発するための勉強をしていた僕。そんなある日、また自宅の電話が鳴りました。

「岩井君は、セガ(秘)ハイテク集の給料でMSX2を買ったよね? 今度MSXの専門雑誌を創刊するんだけど、興味ある?」それを断る理由など、僕には何もありませんでした。

新しい仕事は、編集アシスタント。正直、それまでの仕事と何が違うのかまったく理解しないまま、徳間書店「MSX・FAN」編集部で働くことに。加入タイミングは、創刊号が発行されたばかりで、2号目を制作している最中でした。編集部へ初めて顔を出した時には、まだ発売していないシューティングゲームのMSX2版『火の鳥 鳳凰編』を少し遊ばせてもらい、「僕の腕前をここでアピールしたい!」と気合いを入れたことを覚えています。

ちなみに入社テストは「自分が得意なゲームのプレイを代表のジャマ森さんに見てもらう」というもの。MSX雑誌の試験なので「MSXのアクションゲームで、新しいものを…」と悩んだ挙句、『ディーヴァ ソーマの杯』のアクションゲーム部分を見せることに。でもこれ、アクション要素が低いゲームだったので、「上手いのか下手なのかがよく伝わらないよな…?」などとモヤモヤしつつも、合格を頂きました。

ここでの初仕事はMSX版『ハイドライドII』攻略。編集部でマップを撮影し、プリントアウトした大量のマップをセロテープで貼り合わせて、巨大な地図を作りました。ただ、編集部滞在中だけではとても終わるボリュームではなく、翌朝に学校へマップを持ち込み、授業中にも作業して、ようやく完成。

同僚たちからは「編集部で作業している間しか時給が支払われないんだから、学校で仕事をするのはもったいない」と言われましたが、僕にとっては給料なんて二の次。「ゲーム雑誌作りに参加できる」「しかも、お金がもらえる」だけで嬉しかったのです。

そんなテンションですから、経理担当の女性から給料の振込先銀行口座を聞かれた時に「お金は要らないので、全額ゲームソフトで受け取るというのは可能ですか? あと、ソフトの社割制度はないんですか?」と質問するレベル。もちろん、「給料をお支払いするので、自分で買ってください」という、冷たい返答を頂きました…。

MSX・FAN編集部では、『メタルギア』『ルパン三世カリオストロの城』などの攻略記事を担当したほかに、先輩たちの担当作品を代わりにプレイして、画面写真撮影のお手伝いをすることも多々。

編集部に届いた『F-1 SPIRITS』などのサンプルソフト(主にコナミ作品)は誰よりも先に飛びついて遊び、「MSXのゲームについて、徳間書店で一番詳しい人になりたい」と願うようになりました。

しかし、そんな楽しい日々は長くは続かなかったのです。

 

ファミマガへの人事異動

徳間書店インターメディアではファミマガこと「ファミリーコンピュータマガジン」が一番の人手不足でしたし、何より「ゲームが上手い人」を求めていたという背景があって。このため、MSX・FAN編集部に入ってきた「ゲームが上手い小僧」は、入社後わずか3カ月でファミマガへの人事異動を指示されました。

セガに恩義があって、MSX2に詳しくなろうとしていた僕にとって、ファミコンは敵性ハード。マイノリティを支持することでアイデンティティを主張する、よくいるオタクの反応を示した僕は「辞令をお断りします。どうしても人事異動を指示されるのであれば、退職します」と宣言したわけです。

結局、その願いは受け入れられず、MSX・FAN最終出勤日を迎える僕。お世話になった編集長に置き手紙を残し、その日を最後に編集部を去るつもりでした。

…が、お世話になったMSX・FANの編集長から「直接会って話がしたい」との電話。さすがに断るわけにもいかず、お会いして、僕の気持ちを伝えました。結果、ファミマガ内に「セガ・マークIIIのコーナーを作ってやるから、戻ってこい」との交換条件。渋々、ファミマガ編集部で働くことを承諾するのでした。

ところが、実際に働いてみると『メタルギア』『マイクタイソン・パンチアウト!!』の攻略記事に加えて、ウル技コーナーにも参加していました。

読者から届いたウル技を試しつつ画面写真を撮影するのが一番大変でした。例えば『沙羅曼陀』はオプションが最大2個しか付きませんが、「パワーアップカプセルをたくさん画面内に出した状態で、オプションを2つ付けたまま画面前方でやられて、パワーアップカプセルでオプションを2つ付けつつ、流れてくるオプションを2つ回収すると4つ付く」とかいう葉書が送られてくるわけですよ。それを見た僕は「ガキが適当なこと書きやがって…」って思うわけですが、検証しないわけにもいかず。結果、パワーアップカプセルでオプションを付けると、流れてくるオプションが消えました。検証するまで、2時間近く。

そんな「こうすると、できるんじゃないかな?」的な葉書が多い中、『ファミコングランプリ F1レース』で「ガードレールの角に突っ込むと、ガードレールの向こう側へ入れる」という葉書が届いたことがあって。「はいはい、試せばいいんでしょ…」と、マシンをガードレールに擦りつけていると…「あ、入った!」。ガガガガ…とぎこちない動きをしながらも、マシンはガードレールの向こう側を走行した後、コースへ復帰。「…あ、写真を撮り忘れた…」このあと、写真を撮影できたのは4時間後でした…。こういうこともたまにあるので、基本的にはほとんどの投稿ネタを実際に試すことになり、「ゲームが上手い人」が必要だったのです。

このほか、シャープのファミコンタイトラーから出力されたS端子の画像をPC-9801で構築されたグラフィックツールに取り込み、ウソ技記事用の画像を作るなど、初めての仕事もたくさん。ウソ技は『ウルティマ』の城をコピーして「城の横に新たな城が出現!」みたいなものしか作れませんでしたが、先輩が『ファミリーテニス』でドットを打って、「隠しキャラ、おかひぃ(岡ひろみ)が出る」という顔グラフィックを作っていたのを見て「この人には叶わない…」と愕然としたのも、いい想い出です。

そして自分が忙しくなり過ぎて、セガの記事は別の編集アシスタントが担当することになるという本末転倒ぶり…。あれだけファミコンを拒否していた僕なのに、編集部に入って本体を買ったら、まあファミコン大好きッ子になりましてな…。

 

そして、編集者へ…

こうして始まった、僕の編集者人生。

専門学校を卒業したあとは徳間書店のアルバイトも辞め、ソフトハウスに就職

ある銀行の預貯金システムをPL/Iでプログラミングしたりしていた時期もありましたが、「自分が求めていたものと、何かが違う」と違和感を感じ、1年半で退職。古巣である徳間書店インターメディアの門を叩き、「メガドライブFAN」「PCエンジンFAN」2誌の編集デスクとして復帰することになりました。

その後、『ストリートファイターII』と出会い、「このゲームの攻略記事を書きたい」新声社へ転職。新声社では「ゲーメスト」「ゲーメストムック」の編集を経て、「ゲーメストEX」では編集長を任せて頂いたりも。

その後に「ニンドリ」こと「ニンテンドードリーム」でも編集長をさせて頂きましたが、不可抗力により辞任。今はゲームと無関係の本を作る仕事をしています。

『スペースインベーダー』攻略を書くようになってから、40年近く。たまたま東京に住んでいたことと、ゲーム雑誌の編集者に見つけて貰ったという幸運だけで、この仕事に就くことができました。今のようなネット環境があった時代ならば、僕よりももっと上手い人に白羽の矢が立てられ、僕のように中途半端な子供は「単なるゲーム好き」のままだったと思います。

ゲームが好きで、ゲームをどうにか職業にしたい…と考えた時、幸運を活かして「ゲーム雑誌と攻略本作り」という道を選んだ僕。ゲームクリエイターにも憧れていましたが、10歳の頃から攻略記事を書いていた僕にとって、この選択は正しかったと思います。

 

レトロゲームについて

僕は未だにゲームが好きで、ニンテンドースイッチ『スーパーマリオオデッセイ』のマップデザインに感動したり、PS4『モンスターハンター:ワールド』ではボイスチャットをしながら協力プレイをしています。でも、たまにレトロゲームで遊びたくなる瞬間もあって。

どちらがいいとか悪いとかじゃなくて、『FGO』で★5サーヴァントが出ない…って悩んでいても平行してビリヤードやボウリングをやりたくなる瞬間があるように。PS4で巨大アリから地球を防衛している時に、ふと『バルーンファイト』がやりたくなる時だってあるわけです。

でも、ゲームは未だに日々、新作が発売されています。この状況下、後世に伝えたい名作が埋もれていかないように、僕等「そのゲームの魅力を知っている」人々が、初見の人に興味を持ってもらえるような切り口で紹介できたらな、というのが僕の目標です。

そういう意味では、BEEPさんのようなお店があることは本当に幸せなこと。この記事を引き受けさせていただいたように、微力ながらお力になれることがあれば、積極的にご参加させていただければと思います。

BEEPさん、そしてバトンを渡して下さった松井さん。貴重なチャンスを与えて下さり、ありがとうございました。

…と、いうわけで次のバトンはゲーム雑誌『Beep』三代目の編集長を経て『BEEP!メガドライブ』『セガサターンマガジン』などでも編集長をされていた、川口洋司さん(現在は社団法人日本オンラインゲーム協会)にお願いします。川口さんが『Beep』の編集長になられた経緯はお伺いしたことがないので、今からわくわくしています。

 

おわりに

僕が子供の頃、ゲームでどうしても勝てなかった母親がアルツハイマー型認知症になりました。昔のことは結構覚えていられるのに、さっき会話した内容など新しく得た情報は、数分間しか覚えておけないようです。こんな状態では、もう二度とゲームで対戦することはないでしょう。僕が自宅でセガサターン版『セガラリーチャンピオンシップ』のリプレイを観ていたら「本物の映像みたいだね。お前と一緒に遊んだレースゲームとは全然違うね」と感想を言ってくれたのが、母の口から出た、最後のゲームの話題になりそうです。

あんなにも自営業と家事の二足わらじで忙しかった中、僕に付き合ってゲームを一緒にしてくれた母への恩は、一生忘れません。シンプルなゲームが多かった黎明期だったからこそ、ゲーム経験のない母親でも遊んでくれたんでしょう。

ありがとう、お母さん。あの時の楽しい記憶があったから、僕はゲームを仕事にできたんだよ。

そして、僕と母を繋ぐ素敵な想い出を作ってくれた黎明期のゲームにも感謝を。

久々に、『レーシング112』で遊びたいなー。

著者略歴

MW岩井(twitter:mwiwai

高校在学中に「セガ(秘)ハイテク集」ライターを経験後、専門学校に通いながら徳間書店「MSX-FAN」や「ファミリーコンピュータマガジン」で編集アシスタント。

専門学校卒業後はシステムエンジニアとして銀行系システムを制作していたが、ゲーム雑誌作りが忘れられず、古巣の徳間書店インターメディアで「メガドライブFAN」「PCエンジンFAN」編集デスクへ復帰。

後に『ストII』の記事に携わりたくなり、新声社へ転職。

「ゲーメスト」「ゲーメストムック」の編集を経て「ゲーメストEX」編集長、「ゲームNavi」副編集長に。

「ニンテンドードリーム」編集長の辞任後は、ゲーム関係の仕事から遠ざかる。

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