【第12回リレーブログ(前編)】 元ベーマガライター 響あきら様

 こんにちは響あきらです。最初に断っておきますが、これから書くことはゲーム雑誌編集者としてではなく、ゲームライターとしての体験です。また、ゲームライターになる前のアーケードゲームとの関わりからを書いていこうと思います。文中においてゲームセンターに置いてあるゲームは“アーケードゲーム”、家庭用ゲーム機などのゲームは“ビデオゲーム”と表記いたします。少し長いですが、よろしくお願いいたします。

ゲームセンターへの導き

 アーケードゲームとの出会いは、母親に連れていかれたデパートの屋上に置いてあったエレメカが最初だったと記憶しています。デパートで母親が買い物する間、屋上でエレメカを遊ぶ人達を眺めていました。金銭感覚が厳しい家庭だったので、親の許可なしにお金を使うのは許されていませんでした。そのため、他人が遊ぶのをキラキラした目で見つめる少年でした。

 この状況が大きく変わったのが、1979年の中学2年生の時に通学路途中に出来た“インベーダーハウス(仮)”でした。ゴルフ場の脇に建てられた掘っ立て小屋に、当時社会現象を巻き起こした『スペースインベーダー』が数台置かれたのです。初めて『スペースインベーダー』を見た衝撃は今でも忘れません。敵対するインベーダーが、こちらを狙って攻撃してくる。さらに時間と共にプレイヤー側へ向かって降りてくる、まさに侵略のギミックを見事に表現していました。この出会いをきっかけにして、ゲームセンターなるものの存在も知ります。

黄金のパスポートを手に入れる

デパートの屋上のような明るさはなく、薄暗い屋内にエレメカ、アーケードゲーム、ピンボール等が並んでいました。この雰囲気がとても気に入り、ゲームセンターという場所が凄く好きになりました。しかし当時、ゲームセンターは学校で行ってはいけない場所に指定されていました。部活も忙しく、中学2年も終わりになって高校受験勉強もスタートし、塾へ通うようになります。それでも暇を見つけては、ゲームセンターを覗いていました。中学になっても自由に使えるお金はとても少なく、なかなか自分でプレイできませんでしたが、他人のプレイを見ているだけでも、とてもワクワクしました。

 塾の帰り道、自転車を漕ぎながら、ある問題に気づきます。受験のため、ゲームセンターへ行く時間はとても限られている、でも高校受験が終わっても、3年後には大学受験、またゲームセンターへ行く時間がきっと制限されてしまうと。そこで目標を立てます。受験はこの一度きりで終わりにしよう。“大学までつながっている付属高校”へ行こうと。それからの8か月間は、真面目に受験勉強に打ち込みました。ゲームセンターで思い切り遊ぶという目の前のニンジンはとても魅力的だったからです。そして運よく、付属高校に合格できました。尊敬する人物の欄にその学校の創立者の名前を自信満々に書いたのですが、漢字が間違っていて2次試験の面接で、面接官に「誰?ソレ?」と指摘されたにも拘らず、合格できました。これからアーケードゲーム思う存分楽しめる“黄金のパスポート”を手に入れたのです。

生きる、すなわちPlaying Games

『ポールポジション』(ナムコ)の豆本と『リブルラブル』(ナムコ)の豆本&バシシマーカー。プレイシティ キャロットのゲーム大会などに参加するとこういったグッズが貰えた。

 高校は自宅から遠かったですが、通学路が最高!でした。通過駅に“下北沢”(当時1プレイ50円主流の大きいゲームセンターがいくつかあった)、“新宿”(言わずと知れたゲームセンター最高峰の流行地)、“池袋”(大小様々なゲームセンターがあった)さらに高校の最寄り駅にもナムコ直営のゲームセンターがあったのです。もう最高のアーケードゲーム環境です。

 さらに高校からハマったものが2つありました。麻雀パソコン(PC)です。麻雀は学校が終わると毎日のように卓を囲んでいました。高校の同級生だった見城こうじ氏もメンツ仲間でした。池袋の雀荘で打(ぶ)つことが多かったです。

PCはゲームができる素晴らしい最新機器というイメージがありました。ソフトを変えれば、どんなゲームでも遊べる夢のマシン。秋葉原に通い詰めて、高1の5月PC-8001を購入しました。PC-8001(168,000円)+32KB増設(9,800円)+純正グリーンモニター(49,800円)+純正データレコーダー(10,000円)をディスカウントしてもらって合計20万円でした。オマケでASCIIのソフトを何本か付けてもらったと思います。小さい頃から貯めた全財産とバイト代を全て注ぎ込みました。買った時は嬉しくって、配送は断ってPCとモニター、それに付属品もその場で家に持ち帰りました。すぐさまセットアップして「OK」とプロンプトが確かに未来を感じさせてくれました。

 毎日、しっかり高校は行っていましたが、放課後は麻雀、メンツが揃わないときはゲームセンター巡り、麻雀しても終わった後は最終電車まではゲームセンター、家に帰るとパソコン。休日は朝から晩までパソコンに向かってゲームをしたり、ゲームプログラムを打ち込んでいました。それでも飽き足らず、学校の昼休みも学校を抜け出して、ナムコ直営店で見城こうじ氏と一緒にアーケードゲームをプレイしていました。『ゼビウス』のナスカの地上絵を初めて見たのも、ここです。まさにゲーム三昧の日々でした。

 見城こうじ氏の話が出たので、彼について軽く触れておきます。当時から見城こうじ氏はアーケードゲームについての考察が深く鋭かったです。アーケードゲームを攻略したり、遊んで楽しいだけでなく、さらに多角的な視点をもってアーケードゲームを分析していました。彼と手塚一郎氏の共著の同人誌『BGM』はアーケードゲーム同人誌でありながら、攻略情報はほとんど載っておらず、アーケードゲームの歴史やグルーピング、用語解説などにページを割いていました。当時、アーケードゲームを一緒にプレイしながら、新作や攻略以外の話もたくさんしたので、私自身も彼のアーケードゲームに対する考察に影響を受けています。

ゲームサークルの増加

『10ヤードファイト』(アイレム)の豆本と『スターフォース』(テーカン)の攻略マニュアル、それに『アテナ』(SNK)のシール。当時は色々なゲームグッズがあり、それぞれに思い出もいっぱい。

1982、83年、この時期になって、ゲームセンターに集まった者同士でゲームサークル的なものや、それらの仲間と同人誌を作るといった流れが強く出てきたと思います。ゲームサークルではハイスコアネームの統一を意識したものや、アーケードゲームの攻略法などを記した同人誌などです。

私見になりますが、この流れを大きく後押ししたモノが二つあります。『ゼビウス』と雑誌『アミューズメントライフ』(以下『AMライフ』)及び『マイコンBASICマガジン』(以下『ベーマガ』)の全国各地におけるゲームセンターのハイスコア掲載です。『ゼビウス』における1000万点プレイヤーのスター性や“ソル”や“スペシャルフラッグ”などの隠れキャラに関する情報などがゲームセンターにいるマニア同士を繋げるきっかけを作りました。

AMライフ』及び『ベーマガ』のハイスコア掲載はスコアネームなるものを生み出し、チーム名による統一スタイルも作られました。これ以降、ゲームサークルは規模が大きくなったり、日本各地に数多く誕生し、『ゲームフリーク』→『クインティ』や『ポケットモンスター』を制作、『VG2』→『ゲーメスト』を創刊というようにゲームを制作したり、商業雑誌を作るサークルまで登場するに至ったのです。

アーケードゲームに対する世間の評判

左から伝説の同人誌『ゼビウス1000万点の解法』、『ゲームスタジオ』のオフィシャルブック創刊号、『レイダース5』サービスマニュアル。割とレアなグッズ、というか物持ちが良いのに驚いている。

話を元に戻しましょう。私の高校時代1981年~1983年はアーケードゲームの黄金期。次々とリリースされるアーケードゲームを楽しく毎日追いかけていました。でも、自分が熱中すればするほど、世間との乖離も感じ始めたのでした。アーケードゲームに対する世間の印象は、最悪でした。

アーケードゲームの置いてあるゲームセンターは、不良の溜り場、汚い、薄暗いという印象を持たれ、ゲームセンターへの行くのを禁止している中高学校も多かったのです。アーケードゲームはこんなに面白いのに、どうして世間は理解してくれないのだろう、という気持ちがどんどん大きくなっていったのです。テレビなどでごく稀にアーケードゲームの効果音やBGMが使われたりすると、すごく嬉しかったのをよく覚えています。

そんなモヤモヤした気持ちを抱えている時に発売されたのが雑誌『AMライフ』(1983年1月創刊)です。エンタテインメント全般を扱うという雑誌でしたが、アーケードゲームの紹介記事や攻略もあったりして、本屋で見つけた時にすぐに購入して隅々まで読みました。

その後『AMライフ』を毎月買い続けたのですが、さらなる衝撃を受けたのが、1983年10月発売の『ベーマガ』です。『スーパーソフトマガジン』という小冊子が付いてきて、そこでアーケードゲームの『マッピー』大特集を掲載したのです。これは本当に凄い衝撃でした。自分が理想とする雑誌、いやその理想さえも遥かに超えた雑誌が突然目の前に現れたという感じです。記事を書いたのは“うる星あんず”(大堀康祐氏のペンネーム)さんでした。

大量ページのアーケードゲーム攻略記事は商業誌としては初出のはずなのに、とんでもなく完成度の高い記事でした。見城こうじ氏と共に「これだよ!これ!」と興奮してスーパーソフトマガジンについて語り合ったのを思い出します。

遊ぶ側から紹介する側へ

メーカー『ユニバーサル』の方々との座談会記事(『AMライフ』No.19)。当時アルバイトしていたので参加させてもらっている。当時『ユニバーサル』が好きだった見城こうじ氏や手塚一郎氏らも座談会メンバーに誘っている。


これを機に自分でもアーケードゲーム紹介の記事が書きたいとさらに強く思い、出版社にアーケードゲーム紹介記事の持ち込みをします。1983年の冬の頃だと思います。持ち込んだのは『月刊ASCII』、『I/O』、『AMライフ』です。手紙を出しても音沙汰ないので、履歴書片手に各編集部を訪ねました。世間知らずの私は、アポイントも取らずに編集部を訪ねて、思いの丈を語るという強硬手段に出たのです。当然3社とも門前払い、落ち込みました。ところが1週間後ぐらいに『AMライフ』から電話がかかってきたのです。

攻略記事を書かせるかはわからないけど、雑用のアルバイトで良ければという内容でした。二つ返事で引き受けました。高校3年の冬(1983年ゲームライター見習いのスタートです。ちなみにこの時期に“ゲームライター”という表現はまだありませんでした。

 『AMライフ』の編集部は飯田橋のマンションの一部屋でした。編集長、副編集長兼カメラマン、営業、デザイナー、それに記事を書く大学生のアルバイト、それに雑用バイトの私、新入りの私を含めてもたった6人です。私の仕事は以下のようでした。
・都内のゲームセンターを巡り、ゲームセンターに委託販売している(置いてある)、売れ残りの『AMライフ』の回収及び新刊『AMライフ』補充、売り上げ金回収。
・巻頭記事でアイドル撮影の準備とお手伝い。
・アーケードゲーム取材時のゲームプレイやお手伝い。
・ゲームセンターにハイスコアの問い合わせ&確認。
・メーカーからポジやリリースをお借りする。
・ポジや写真の整理。
・製品紹介の記事(リリースをまとめるだけです)等。

 働くのは基本的には週末や学校の休みだけで、まさに雑用バイトでしたが、それでもアーケードゲームに関われる仕事というだけで、とても楽しかったです。編集部内では一番アーケードゲームに詳しかったので、攻略内容や取り上げるゲームの意見を聞かれはしましたが、記事は残念ながらほとんど書かせてもらえませんでした。

そして『ベーマガ』へ

『マイコンBASICマガジン1984年8月号』

 そんなタイミングで目にしたのが『ベーマガ』内のライター募集のお知らせです。マッピーの便箋にアーケードゲームへの思いをしたためて応募しました。しばらくして電話がきました、「電波新聞社に来て欲しい」と。

喜び勇んで電波新聞社を訪ねました。五反田駅前にある大きな黒っぽいビルで会社(新聞社)という感じで胸がドキドキします。エレベーターを上がり、『ベーマガ』編集部の打ち合わせ場所へ通され、しばらく待っていると、そこに見城こうじ氏手塚一郎氏もやってきます。後で聞いたのですが同人誌『BGM』が編集長の目に留まったようで、この日に二人で呼ばれていたのです。事前に見城こうじ氏と『ベーマガ』訪問の話をお互いしていなかったので、この偶然に正直ビックリしました

 私の対応をしてくれたのは編集者のつぐ美さんでした。そこで彼女から驚くべきお願いをされたのです。「次号の『ベーマガ』記事を今ここで書いて欲しい」と。記事といっても巻末の1Cページでのコラム記事ですが、何度も何度も書き直してやっと仕上げました。記事内容は前号で紹介した『ちゃっくんぽっぷ』の“スーパーハートの出し方”です。

文章がヘタクソで大丈夫かなと心配していると、それを読んだつぐ美さんは、にこって笑って「これからよろしくね、今度来るときは原稿の振込先になる銀行の口座もね」。ここからゲームライターがスタートするのです。この初掲載記事は1984年ベーマガ』8月号でした。

 『ベーマガ』ライターになって、アーケードゲーム紹介記事を書く時に気を付けていたことが、ひとつあります。記事内容は紹介8、攻略2にしようということです。紹介内容はできるだけ、読者が疑似体験をできるように心がけました。これは編集部要請でもありました。読者の多くは、ゲームセンターの出入りが禁止されていたり、出入りできても紹介するアーケードゲームがプレイできるとは限らないからという理由でした。私もこの考えには賛同して、記事を読むだけで、あたかも自分がプレイしている気分になれることを第一に考えました

 ただ、紹介記事だけだと、そのアーケードゲームをプレイしたことがある読者には物足りないので、写真やキャプションを使って、攻略情報を伝えようとも努めていました。疑似体験(今風に言えばゲーム実況)+ 攻略、当時の『ベーマガ』を知っている読者ならば推察がつくと思いますが、このスタイルは山下章さんの記事『チャレンジ・アドベンチャー・ゲーム』と同じです。私が『ベーマガ』を読む中で、この紹介方法がベストだと思ったので、方法論としてパクらせてもらったのです。ひとつのアーケードゲームを2回、3回と特集する場合は当然、攻略内容に寄った記事にしました。

 『ベーマガ』編集部は、最高に楽しい仕事場でした。大好きなアーケードゲームを取材させてもらい、その記事を書いて、しかも原稿料ももらえる。他のライターも年齢が割と近いし、アーケードゲームやPCゲーム好きが集まっているので、すぐに打ち解けてライター同士も非常に仲が良かったです。一緒に食事したり、海外旅行も行ったりしていました。山下章さんの部屋もよく遊びに行っていました。特に家を改築されて、部屋が凄く広くなって、アーケードゲーム筐体なども置かれるようになって、年末などはよく徹夜で遊ばせてもらっていました。

『ALL ABOUT namco』について

マイコンBASICマガジン別冊『ALL ABOUT namco』(1985年)&『ALL ABOUT namcoⅡ』(1987年)。今でもたまに読み返したくなります。大切な宝物のひとつです。

 ナムコゲームの攻略本ALL ABOUT namcoについても、簡単に成り立ち等を書いておきます。スタートは大橋編集長からの発案だと記憶しています。当時のナムコのアーケードゲームの圧倒的人気がもとになっていたのは、言うまでもありません。早速、編集長、編集者、ライター達が集まって会議が開かれました。記事方針は、攻略 + 資料。攻略は完璧を目指すが、それだけでなく、後世にどんなゲームだったのかを伝える資料性も重要だと。そのため、『ALL ABOUT namco』&Ⅱも巻末で結構なページを使って、各アーケードゲームのドット絵やBGMや効果音(!)の音符等も載せています。

 この資料としての『ALL ABOUT namco』は、この後ナムコのアーケードゲーム移植作を作る際の大きな助けになったと聞いています。またナムコ自身の広報の資料用にも『ALL ABOUT namco』が使われていたとか。現在においても、非常に価値ある資料だと思います。巻末のドット絵や音符等は地味なページですが、校正などに膨大な時間がかかったはずで、当時の大橋編集長の英断には頭が下がる思いです。が、逆に私は、MSXファミコンのナムコゲームが載ることには反対していました。アーケードゲームだけで構成したいと思っていたからです。これはアーケードゲームがPCゲームや家庭用ゲームよりも最高峰にあるという、当時の私の思い込みからくるものでした(中二病をずっと引きずっていました)。

 担当したアーケードゲームは立候補で決めたのですが、その会議に出席できなかったため、私の担当は少し古めナムコゲームが多かったように感じます。まあ、私より格段に腕の立つライターが揃っていたので、それらのライターが担当した方が質の高い攻略記事ができるという編集判断もあったのかもしれません。

 『ALL ABOUT namco』(1985年)は全424ページ、『ALL ABOUT namco』(1987年)は全498ページ、手前味噌ではありますが、編集者とライターが協力して、素晴らしい本ができたと思います。当然、の話や『ALL ABOUT SEGA』の話もあり、実際に準備はしていたのですが、少ない人数で『ベーマガ』を毎月刊行しながら別冊を作るというのは編集部にとっての負担は想像以上に大きく、ライターも就職や卒業など忙しくなり、立ち消えになってしまいました。

4人のゲーム開発者

 『ベーマガ』のアーケードゲーム記事は、少なくとも私がいた時代に編集部からの押し付けは一切なく、ライター側の希望で扱うアーケードゲームが決定し、推薦者が担当することが多かったです。記事作成は、編集者の方と一緒に取材をして、ゲーム画面を撮影、後ほどポジを確認しながら記事を書いていきました。取材の際に、メーカー広報の方が担当することもあったのですが、ゲーム開発者が直接説明してくれることも多かった時代です。

 凄くたくさんのゲーム開発者にはお世話になったのですが、特に親しくさせて頂いた方が、遠藤雅伸さん岡本吉起さん鈴木裕さん西沢龍一さんです。以下、私の視点からの文章です。間違いや事実誤認などありましたら教えて頂ければ幸いです。

遠藤雅伸さん

代表作『ゼビウス』、『ドルアーガの塔』、『イシターの復活』、『ファミリーサーキット』等
 遠藤雅伸さんに最初にお会いしたのは、『プレイシティ キャロット新宿店』での『ドルアーガの塔』のロケテストだと思います。当時、私はうる星あんず氏FUL氏EXCHANGER氏らとドルアーガの塔攻略チーム(後に、世界で初めて『ドルアーガの塔』をクリア)を組んでいました。

 『ドルアーガの塔』のロケテスト視察で、遠藤さんがいらっしゃってお話をさせて頂いたのが最初です。私達はロケテスト中、毎日いるものですから、時々いらっしゃる遠藤さんと次第に親しくさせて頂き、しまいには食事まで御馳走して頂くようになりました。さらに半年後、『グロブダー』のロケテストが『プレイシティ キャロット一番街店(新宿の歌舞伎町)』で行われ、そこでも遠藤さんとお話しする機会があり、翌年のゲームスタジオ設立の際は、引っ越しを有志で手伝ったのを覚えています。

 私が語るのもおこがましいですが、現在、東京工芸大学芸術学部ゲーム学科の教授をされていることからも、理解できるようにゲームを分析される能力はずば抜けていたと思います。ゲームを分析した話も私にも理解できるようかみ砕いて説明してもらい、遠藤さんの話を聞くのがとても楽しかった記憶があります。

岡本吉起さん

代表作『タイムパイロット』、『ソンソン』、『エクゼド エグゼス』等
 岡本吉起さんに最初お会いしたのは、『ソンソン』の取材の時です。当時カプコンの開発分室新宿にありました。岡本さんのご厚意で週1~2回この新宿の開発分室へ遊びに行くようになりました。アーケードゲームを遊ばせてもらったり、時には発売前のゲームを遊ばせてもらって、感想なども尋ねられることもありました。実はここで『エグゼド エグゼス』制作のお手伝いもさせて頂くのですが、長くなるので後ろで語っています。

 岡本さんは、その言動から誤解されがちなのですが、実は論理武装してゲームを制作するタイプの人です。いくつかのルールを持っていて、それを活かして、でも時には変化応用させながらゲーム制作をしていたように思います。岡本さんが大切にしていたルールのひとつに、“プレイヤーがやられる瞬間”があります。このやられる瞬間つまり自分がミスした瞬間を納得できるか、できないかを非常に重要視していました。納得できればプレイヤーはプレイを続行もしくは再プレイをしてくれるけど、納得できないとプレイヤーはゲームをやめてしまうと。

 例えば、プレイヤーがある程度近付いた敵からは攻撃されない、という仕様です。これを許すとプレイヤーが気づかないうちに、やられてしまうことが増えてしまうのです。または、こんなのは避けられない、ずるいという気持ちが沸いてきます。さらにプレイヤーが納得できるミスを作り出そうとするとゲームが簡単になりがちなのですが、そうはならないアイディアをたくさん持っていて、いくつか実践して試していました。

 他のルールでいうと、見た目(キャラデザイン)によってそのキャラの特性や攻撃方法などが想像つくようにしてあるというルール。石っぽいキャラは堅いとか、ダメージを与えていくと色が変わるとか。それほど目立たないけど、後のアーケードゲームに影響を与えたルールを数多く作り出したと思いました。

 この岡本さんの下には次々の素晴らしい才能の方々が集まってきます。船水紀孝さん安田朗さんらです。開発に人がどんどん増えていき、統括する立場の岡本さんは、部下が作るアーケードゲームをサポートするようになっていきます。1986年カプコン開発が大阪で統合されるにあたり、新宿の開発分室が閉鎖されました。その後も色々な面で助けて頂きました。

鈴木裕さん

代表作『ハングオン』、『スペースハリアー』、『アウトラン』、『バーチャファイター』等
 鈴木裕さんとの最初の出会いは『スペースハリアー』の取材の時です。作業着で現れた裕さんは、とても物腰が柔らかく、それでいてフランクに接して頂いたのをよく覚えています。
 
裕さんの考えるゲームは、常に斬新なコンセプトを持ち、それでいて裕さんにはその完成形がビジョンとしてはっきり見えている印象を受けました。

ゲームコンセプト“カッコよく、気持ちよく、楽しくドライブするゲーム”と当時言われても、私は全然ピンときませんでした(当時は車ゲームと言えばレースがほとんどでした)。完成したものは『アウトラン』でした。真っ赤なオープンカーの隣に金髪の美女を乗せて、すばらしい景色を眺めながら何車線もあるハイウエイをご機嫌なBGMを聴きながらぶっ飛ばす。まさにゲームコンセプト通りの全く新しいドライブゲームだったのです。完成品を見て、私のような凡人には初めてコンセプトが理解できる。そのぐらいの斬新さが裕さんのアイディアにはありました。

バーチャファイター』の時もそうです。当時は『ストリートファイターⅡ』のメガヒットで格闘ゲームは決してカプコンに敵わないから、真似るのはアリだが、新機軸の格闘ゲームはやめた方がいいと周囲に言われたそうです。それでも“コマンド入力が苦手で、すばやい入力が下手な人でも、判断や予測が合っていれば勝てるゲーム”をコンセプトに『バーチャファイター』を作り上げました。結果、大ヒットになったばかりではなく、アーケードゲームにおけるポリゴン技術向上にも大きな寄与をするのです。

あまり話題になりませんが、プログラマーとしての腕も超一流です。世界的天才プログラマーのマーク・サニーがセガに在籍していた時、『パワードリフト』を見て、「どうやってこのスピード処理ができているのか、想像つかない」と言っていたのをセガの人が教えてくれました。

西澤龍一さん

代表作『忍者くん〜魔城の冒険〜』、『Wonder Boy』、『Monster Worldシリーズ』、『レイダース5』等
 前述の3人に比べるとメディア登場することは少なめですが、西澤龍一さんも紛れもないスーパーゲームクリエイターのひとりです。西澤さんのゲームの特徴としては、プレイする度に、ゲームの内容や奥行きがどんどん広がっていく攻略パターン発見重視のアーケードゲームが多いように感じます。
 
ワンダーボーイ モンスターランド』などは様々な家庭用ゲーム機、PCなどに移植されて、名作でもあり有名ですが、私が西澤ゲームで一番推したいのは『レイダース5』です。ジャンル分けで言うと強引ですが、“シューティングパズルゲーム”。とにかく、他に似たゲームが存在しないのです。

自機の操作方法が独特で、それが原因で残念ながら世間的には敬遠されたと思いますが、慣れてくると、なるほどそう来るかと唸らずにはいられないゲーム構成が続きます。面クリアタイプですが、プレイしながらゲームデザイナーと対話しているような気分にさせられるのです。私の生涯、アーケードゲームベスト10に間違いなく入る超傑作です

PS4のアーケードアーカイブでダウンロードできます(2020年3月現在)。できれば4方向レバーのジョイスティックでプレイすることをお勧めします。SCENE10まで黙ってプレイしてください。そうすれば、素晴らしい『レイダース5』の世界が見えてくるはずです。

 

後編に続く

 

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