数々の有名ゲームタイトルに関わり、勢い余って「香港97」にも関わってしまった闇のプログラマー・芦田さん(1968年生まれ)の少年時代を振り返る漆黒のマイコン一代記。
諸般の事情で一部仮名・変名を用いてますが、基本はありのまま。大筋はノンフィクションでございます。
中学一年生にして、80年代アキバ人なら誰でも知ってる有名パソコンショップ「マイコンセンターRAM」に自作ゲーム(MZ-80B)を持ち込み、20万円の報酬を手渡された芦田少年。
普段は食事も満足に与えられないばかりか、食料品・生活用品の盗みを実の親から強要される始末。常に腹を空かせ、同級生からの冷たい視線をものともせず、皆の分まで給食をおかわりしまくり、常にギリギリで生き抜いてきた芦田。そんな極貧少年に、突如降ってきた思いがけない大金。
「親に知れたら無条件で没収ですよ。かといって預金するなんて知恵もないし。金は筆箱の中に隠して、見つかる前に使っちゃおうと、とりあえず買い食いしまくりました」
近くの弁当屋で好きな弁当を次々と買い、(持ち帰れないから)店の前で立ったままかき込んで、連日ゲーセンに入り浸った。
80年代のゲームセンターは24時間営業がデフォ。夜中に子供がうろうろしようがお構いなし。
一年前の今ごろは1プレイ100円が払えず、真っ暗なゲーセンに何時間も立ち尽くし、他人のプレイを穴の空くほどガン見しながら、脳内でプレイヤーを自分に置き換えるという離れ業で遊んだ気になっていた。
これ、見られる側は、飢えた獣の前でメシを食うみたいな気まずさを味わう。ごくまれにだが、哀れみのこもった一瞥とともに、クレジットを残したまま席を立つ者もいたそうな。
「それがいきなり大金掴んで、好きなゲームが好きなだけ遊べる立場になっちゃったわけです。嬉しくて、これ見よがしに100円玉積み上げて遊んでたら、妬まれたのか、担任に密告されたんです」
芦田家の極貧っぷりは中学でも有名だった。まごうことなき地域ダントツの貧乏人がある日突然、大名遊びを始めたら、何かやらかしたと邪推されるのも無理はない。
「芦田、おまえ近頃色んな所で遊び回ってるそうだな。なんか悪い事でもしたんだろうよ? てめえん家みたいな貧乏家の、どっからそんな金が湧いて出るんだ。ええ?」
面倒なことになった…。真実を言えば親の耳に入るかもしれない。咄嗟に言葉が浮かばず時計を見つめ黙っていると、次の瞬間、いきなり左頬に鋭い衝撃を受け、椅子から転げ落ちた。
何が起きたのか、金縛り状態で目を白黒させた芦田だったが、仁王立ちする平原のサンダルをじっと眺め、ようやく殴られたのだと理解した。
昭和の時代、教師の暴力は「愛の鞭」と呼ばれ、喜ぶ親さえいた。
50過ぎの読者なら、子どもの頃の担任を思い出してほしい。今の基準に照らしたら8割は犯罪者予備軍。まともな教師など皆無ではなかっただろうか?
そして不運にも、担任の平原は犯罪者予備軍を超えたモノホンの異常者だった。
「調子に乗りやがって。このクズが! コ◯キがっ!」
当時の芦田は13歳にして身長175センチ。弁当のバカ食いで体重は80キロを超え、向かい合えば担任の平原を見下ろす大男になっていた。
とはいえ、図体以外は年相応。容赦ない罵詈雑言、合間合間に平原が繰り出す蹴りとパンチに、身も心もズタズタに蹂躙されたのだった。
「手加減なんて一切ないですよ。本気のパンチと蹴りです。それも胸とか膝上とか、目立ちにくい場所を狙ってくる。一番やられたのは頭かな……(笑い)。今だったら速攻で逆襲して爪の間に針刺してやりますけど、当時は子供だったから、先生をどうこうするって発想すら出てこないんですよ」
その日、平原の拷問は40分あまりも続き、いい加減殴り疲れたのか、日暮れ前になってようやく解放された。
「平原のやつは、うちの親が普通じゃないの知ってますから、口止めすらしてこなかったですよ。ストレス解消もできてハマったんでしょうね、その日一日だけだと思ったら、学年上がって担任が替わるまで、毎日ほぼ休みなく残されて、殴られ続けたんです。」
じき、殴られ慣れた芦田の反応が薄くなると、平原は憎しみに輝く目をいっそう細め、聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせかけるのだった。
「低能の能無しのコ◯キのキ◯ガイが……。ほら言えよ。復唱しろよ!って、殴られながら言わされるんです。僕は無能で能無しのコ◯キですって……。もっとひどい事もね。毎日ですよ」
親にも打ち明けられず、連日、モサドもびっくりの拷問を受け続けた芦田の心は、いつしか狂犬のように荒み切ってしまった。
「二年に上がると担任が変わるんですけど、その新しい担任がカッコつけるんですよ。暴力は許さないとか、いっちょ前に偉そうなこと言うんです。聞いてるうち、なんか知らないけどイライラしてきて、ありとあらゆる挑発して、結局暴力反対の新しい担任からもボコボコに殴られるんですよね。言ってる事とやってる事が違うじゃねえか、お前は所詮畜生と同じだって、殴られても内心ニヤニヤしてました。今思えば病みきってましたよ」
平原はなぜ、ここまで執拗に芦田を追い込んだのか?
授業中。真面目に耳を傾ける他の生徒をよそに、ひとり黙々とハンドアセンブルに没頭するその態度。平原よりふた周りも大きく、向かい合うだけで見下された気分。さらには前述した万引き行為など、学校に苦情が来ることも一度や二度ではない。芦田の素行が最悪で、鬱憤がたまっていたのは確かだろう。
「盗みと言えば小学生の頃ですけど、ひとつ胸糞悪い話をしてもいいですか?」
その日、悪友に誘われ、学校近くの丘陵地にある老人ホームに出かけた芦田。建物裏のベンチに、小柄な爺さんがひとり、ぽつんと腰掛けていた。
悪友いわく、その爺さんは毎日決まった場所にいて、子供なら誰彼構わず小遣いをくれるという。
試しに芦田が挨拶すると、爺さんはたわいもない質問を幾つかした後、ニッコリ微笑んで千円札をくれた。
「僕もまだガキでしたから、ああこの爺さん、挨拶すれば金くれるんだって、この出来事でスイッチ入っちゃって、それからはもう暇さえあれば通って、行って挨拶して少し喋って小遣いもらうみたいな。お金は千円のときもあれば、500円のときもありましたけど、会えば必ずくれました。ただしばらく経って、どうしてもまとまった金が欲しくなって」
あるとき、爺さんが財布からお金を出そうとしたそのとき、芦田はガッと手を伸ばすや財布ごとひったくり、全力で走った。
「ひったくって、そのまま猛ダッシュして急な坂を一気に駆け下りて、ハアハア言いながら振り返ったら、建物の前に爺さんが立って、黙ってこっち見てるんです。すごい悲しそうな顔して」
財布を盗られた悔しさ、悲しさというより、芦田との別れを悲しんでいるような、そんな寂しさの混じった爺さんの顔をガッツリ見た途端、気まずさと罪悪感から今までにない自己嫌悪にかられ、その場で嘔吐したという。
「40年経ちますけど、未だに忘れられないですよ」
その後、芦田は幸運にもゲームで大金を稼ぎ、盗みから足を洗うことができた。が、逆にあの頃パソコンをやっていなかったら、犯罪者としての人生を歩むしかなかっただろう。
キチガイ教師に殴られ、蹴られ、洗脳めいた辱めを受けながらも、放課後はマイコンショップの店頭デモ機にへばりつき、黙々とゲームを作り続けた。
「デビュー作はMZ80Bで作ったんですけど、グリーンモニターで緑色しか出ないから、とにかく地味だったんですよ」
カラーが出せないMZ80シリーズではあるが、ハル研(HAL研究所)のPCGという拡張ボードを増設すれば、カラー表示やビットマップでキャラクターを動かすことができた。

「カラフルな画面には憧れましたけど、所詮田舎だからPCGをつけてどうこうする需要がそもそもないんですよ。そんな拡張しなくても、電源オンでカラーが使えるパソコンもいっぱい出てきましたしね」
PC-8001、レベル3、FM8──。強力な新機能を実装したニューマシンが続々リリースされ、パソコン黎明期のプチブームが起ころうとしていた。
この年、芦田はアキバの店に4作品を納品。百万円あまりを稼ぎ倒した。13歳の百万円。これほどの大金を稼いでも、相変わらず親には絶対秘密。自分のパソコンも買えず、ショップ店長のお情けでデモ機を使う芦田であった。
「実家には僕のスペースなんてないし、命令すれば何でもやる奴隷みたいなもんですよ。お金ができて、真っ先に考えたのは一人暮らしですけど、金だけあってもダメなんですよね。不動産屋に札束見せたら、ガキの分際で何考えてるんだって、怒鳴られて終わりでした。」
とはいえ、骨の髄まで病みきった両親からの肉体的・精神的折檻にはもううんざり。日々悶々とするなか、なんとなく立ち読みしたパソコン情報誌「ログイン」のあるページに、アルバイト募集のお知らせを見つけ、芦田の人生は再び激震する! 待て次回!











