『MSX・FAN』は月刊誌である一方で、不定期にムック本もいくつか出していた。有名なのは『ファンダムライブラリー』&『スーパープロコレ』シリーズだ。読者投稿のゲームプログラムを厳選してまとめたベスト版で、付録のフロッピーディスクは自分でプログラムリストを入力することなくゲームが遊べるため人気だった。
この他にも「ゲーム十字軍」や「FM音楽館」といった連載コーナーもムック化された。こうした本誌派生のもの以外に、実質MSX・FAN編集部の手でつくられていたのが「美少女アルバム」というシリーズがあった。1991年に発売された『エルフ美少女アルバム』に始まり、『ポニーテールソフト美少女アルバム』『アリスソフト美少女アルバム』と続き、1992年春に発売した『ウェンディマガジン美少女アルバム』まで全4冊。人気のアダルトゲームソフトを、メーカー別に特集したムックである。
↑美少女アルバムシリーズ
こうしたアダルトゲームはかつてはアンダーグラウンドな扱いだったが、雑誌の誌面でもてはやされるようになったのは、『コンプティーク』(角川書店)1985年7/8月号の「ちょっとHなソフト特集」が大ヒットして以降である。
↑ファミコン版『ゼビウス』の隠しコマンドを知るために買ったファミコンゲーマーの心をもアダルトゲームがわしづかみにしてしまったといういわくつきの号。
その後は『コンプティーク』に続けとばかりに、アダルトゲームの特集、ムック、専門誌までもがさまざまな出版社から掲載、創刊されるようになったが、中でも積極的だったのが『MSX・FAN』の兄弟誌である『テクノポリス』だった。
↑『テクノポリス』の1986年7月号と1992年6月号。判型も変わっている。
『コンプティーク』と同じくパソコン総合ゲーム誌だった『テクノポリス』は、アダルトゲーム特集で部数を大きく伸ばしたようで、アダルトゲームの特集ページは拡大し続け、ついにはロゴの上に掲げられたキャッチコピーも「ちょっとカゲキなパソコン♡プレイングMagazine」となった。
そんな時期に出た「美少女アルバム」は、Mファンが作っているだけあって他とは一線を画すものになっていた。まず1メーカーだけを掘り下げる本になっているため、歴史を追ったり、ソフトカタログ・キャラクター図鑑的な要素があったこと、未公開の設定資料や描き下ろしのイラストなどが多数掲載されたりしたことなどだ。中でも、全社員といっても良さそうなスタッフの写真入り開発者インタビュー記事は、現場の生の空気を感じられる企画で、”距離”の近さも魅力だった。これは、本誌でさまざまなソフトメーカーに密着した記事を作っていたMSX・FAN編集部ならではの記事だったと思う。
個人的に印象的だったのは『エルフ美少女アルバム』の会社訪問記事だ。住宅街の二階建て一軒家のベランダと玄関からスタッフ一同が顔を出して並んでいる集合写真は、文字通りアットホームな雰囲気に満ちていて、自然と笑みがこぼれる。
今でもゲーム専門誌やWebメディアは、ゲームソフトという商品そのものだけでなく、メーカーについてもより深く知ることができるのが醍醐味だが、90年代前半までのゲーム雑誌は、さらに距離が近い。特に『MSX・FAN』では「ゲームを作る」ということにおいて読者とメーカーが地続きだったこともあってか、その傾向が強かったように思う。当時のレジェンドクリエイターたちのことを、今も多くのファンが話題にするのは。ゲームの素晴らしさもさることながら、名のあるスタッフを紹介した記事との相互作用によって記憶に根付いているのかもしれない。
さて、この『美少女アルバム』シリーズすべてを作ったのが、僕の上司であった「ときちゃる」ことTOKITAさんだ。『カレイジアスペルセウス』(コスモスコンピュータ・1984)の雑誌掲載用マップを描くデザイナーとして業界に入ったというTOKITAさんは、デスクとして編集部を支える頼れる上司だった。
ただ、残念なことに僕は『美少女アルバム』の制作には一度も参加していない。僕が編集部に配属されたのは1992年の春だが、これは最後の『ウェンディマガジン美少女アルバム』が校了間近というタイミングだった。僕より少しだけ早く編集部に入った「あじ福田」さんは、いきなり本誌とムックの同時制作を行うハードなスケジュールに加わって、制作中に倒れてしまったという逸話が編集後記に書かれている。ちょうど僕が配属された時期のことであった。
5冊目があれば必ず参加したと思われるのだが、当時成年漫画が社会問題になりつつあった影響もあってか、ある時『テクノポリス』が突如アダルトゲームを掲載するのを止めることになり、『美少女アルバム』の続刊の話も特に聞かなくなった。
↑一番下は最終号(1994年3月号)。「パソコンゲーム情報誌」に戻っている。
さて、僕が編集部で働き始めて1年ほどが過ぎた頃のこと。TOKITAさんから「新しいムックの企画を考えてみないか?」と声をかけてもらった。
「奥成も来年には大学を卒業して編集部を去るのだから、その前に何か『これは自分が作った!』という記念になるものがあったほうがいいんじゃないか」
TOKITAさんの申し出に僕はとても喜んだ。『美少女アルバム』の後継になる新企画を考えさせてくれるなんて! そこで僕が思い出したのが「コンパイル」のことだった。
その頃「ゲームの職人」というゲームメーカーへゲーム開発についてのノウハウをインタビューする連載記事が始まり、第2回がコンパイルだった(1993年8-9月号)。僕は読者プレゼント部分を担当することになり、当時メガドライブ版に対応した『ぷよぷよ公式ガイドブック』という他社(小学館)の本を、開発スタッフのサイン入りで用意することにした。
早速本を手に入れコンパイルへ送るとしばらくして戻ってきたのだが、開けてびっくり。コンパイルのたくさんのスタッフが、冊子中のあちこちのページにコメント、というかラクガキのようなものを書き込んでくれていたのだ。たった1名向けのプレゼントにそこまでするのか? このコンパイルのサービス精神に僕は大いに感心した。もしメーカー特集本を作るなら、そんなサービス満点の会社であるコンパイルがふさわしい。
↑オアシスワープロで書いた当時の企画書(9/7)
早速企画書をTOKITAさんへ提出したところ興味を持ってくれた。アドバイスを貰いながら推敲を重ね、11月には北根編集長へ提出した。
↑最終版企画書(11/15)
この時の企画書は以下。
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『コンパイルの本』(仮称)企画書
MSX・FAN増刊号『美少女アルバム』シリーズは、他誌でありがちの美少女ゲームグラフィック紹介にとどまらず、メーカー(開発スタッフ)の詳しい紹介、ゲームの世界観・設定の紹介にも重点をおいて好評を博した本です。
そのメーカーの徹底解説の部分をさらに強化し、新たにシリーズ化しようというのが今回企画された『コンパイル大全』(仮称)なのです。そして記念すべき第1弾は『ぷよぷよ』でおなじみコンパイルです。
『ぷよぷよ』はセガのゲームで、バンプレストのゲームでTIMのゲームですが、実はコンパイルのゲームなのです。スーファミ版が出て”ぷよ”ブームが再燃することうけあいの今、そのコンパイルという名を全世界に知らしめてしまおうというのがこの本。『ぷよぷよ』の本と見せかけて、実は『魔導物語』をも売り込んでしまおうという本でもあります。1982年に設立以来、縁の下の力持ちとして活躍したコンパイルが、大きく陽の目を見る時なのです。
ちなみにこれからの予定メーカーは、スクウェア、ゲームアーツ、SNK、マイクロキャビン、コナミ、ナムコなどなど。
対象~
スーファミで初めて『ぷよぷよ』に触れたビギナーファンから、『ザナック』時代からのマニアックファン、アルルに心底惚れてしまったオタクまで。
スペック~
B5サイズ(美少女アルバム、CG入門と同サイズ)
付録12センチCD、B2ポスター、再録のオマケ
予価1980円(税込) 1994年1月下旬発売予定
※内容は抜粋
☆ビギナーへのウリ
- 『ぷよぷよ』『ぷよぷよ2』の攻略
- 新作紹介
- コンパイルクラブ総集編
- 4コママンガ
☆マニアへのウリ
- いきものALLカタログ
- メカニックALLカタログ
- ゲームALLカタログ
- シューティングゲーム進化論
- 社員&社屋紹介
- オマケの歴史と再録
☆おたくへのウリ
- アルルのおへや
- マル秘設定資料紹介
- 声優インタビュー
- 広がるアレスタワールド
- グッズ特集
- ディスクステーション誌上増刊号
☆付録
- 12インチCD『ぷよぷよ』 アーケード版音楽をCD化
- B2ポスター アルルとカーバンクルの書き下ろしイラストを綴じ込み付録にする
- 再録のオマケ 「魔導物語カードゲーム」「アレスタ・ペーパープレーン」
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改めて企画書を眺めても、これをつくれなかったのは残念だった。そう、結局この本が世に出ることはなかったのだ。北根編集長からはこの企画書には返事を貰えず、気が付けば年も明けタイムオーバー。僕は就職のため1994年3月にMファンを卒業した。
↑各コーナーのアイデアも細かく色々考えた。
4年後、別の出版社から『コンプリート・コンパイル』(1998年10月発売)という、似た企画の本が世に出たが、なんだかくやしくて結局読んでない。
就職後も、僕はたびたび編集部へ遊びに行っていた(おおらかな時代で、いつ行ってもみんな歓迎してくれた)。そんなある日北根編集長へ、あの時僕の企画書へ返事をくれなかったのかなぜか尋ねてみた。すると意外な真相を聞かされた。
「もしあれをOKしたら、奥成君はムック作りに夢中になって、大学卒業のほうがおろそかになってしまうと思ったの。だから止めたのよ」
まさか内容や会社の事情ではなく、僕の生活を心配してのことだったとは!
あの時本当に作っていたら実際どうだったろうか? 僕もあじ福田さんのように夢中になるあまりに倒れるまで働き、卒業制作に身が入らずに自爆していたのかもしれない。
この真相を聞かされた時はとても残念に思ったものだが、今となっては北根編集長の「親心」に大変感謝している。
「奥成洋輔のセガセガしい日々」これまでの連載はこちら
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