【リレーブログ特別編(前編)】元MSXマガジン・BEEP!メガドライブスタッフ 戸塚伎一様

 今回のリレーブログは特別編。『真・魔王ゴルベリアスMSX2復刻版』の特典「藤島聡氏・広野隆行氏インタビュー」のインタビュワーを担当していただきました戸塚伎一様に、ゲームライターになるまでを語っていただきました。まずは前編!(編集部)

<プロフィール>


戸塚伎一 
1971年静岡県出身のゲーム戦士(フリーランスライター)。1990年よりゲーム系メディア・書籍の制作業務に携わり、MSXマガジン、BEEP! メガドライブ、Theスーパーファミコン、セガサターンマガジン、TECH GIAN、ファミ通Xbox/360、電撃姫、ファミ通.com、4Gamer、週刊ファミ通などに参加。
現在は同人誌・テレビゲームの制作サークル“qbert”としての活動も。

■テレビの向こうに広がる“異世界”を知る


 私がおそらく初めて触れたテレビゲームは、任天堂の『カラーテレビゲーム15』。大学生時代に任天堂(の花札工場)でアルバイトしていたという父親が突然手に入れてきたものです。

 ゲーム内容は実にシンプルなものでしたが、番組やCMとは違う空気を放つ無機質な映像がお茶の間のテレビに映し出され、しかも、そこに表示されているものが自分が操作した通りに動くことの不思議さに、1977年当時幼稚園の年長さんだった私は魅了されました。余談ですが、より高性能で面白いゲームがいっぱい出た数年後、「もうこんなの遊ばないよな」と、本体とパドルコントローラーを繋ぐ細いコードを鋏で切ってしまったのは、なかなか苦い思い出です。今は亡き父がテレビゲームに積極的だった期間はほんのわずかでしたが、子供にさえ相手にされなくなったカラーテレビゲーム15本体の無残な姿を見て、ひとり静かに寂しい気持ちになっていたかもしれません。

 非現実的な絵が画面の中で動いている……というテレビゲームのプリミティブな性質が自分にとって大きな意味を持つことを実感したのは、在日米軍基地の居住区(おそらく神奈川県のキャンプ座間)にホームステイした小学校2年生の時でした。

ペーパーボーイ』のステージのような街並みの中、家族どころか日本語が通じる人が近くにいない心細さから夜しくしく泣いていたところ、ホームステイ先の家の少年が、翌日近所のゲームセンターに連れて行ってくれました。人はゲームを通じて言語や文化を超え、交流できるのです。

 現在の健全なアミューズメント施設とは違い、狭く暗い店内にテーブル筐体やアップライト筐体がぎっしり並んでいる、当時のいかにもな個人経営店舗。世間では1年前に登場した『スペースインベーダー』によってすでにテレビゲームが一大ブームになっていましたが、こんなアンダーグラウンドな空間に来たのはこの時が初めてでした。

 それぞれの筐体が放つぼやぁとした灯りの向こうには現実と異なる道理に支配された世界があって、さながらゲームセンターは異世界ゲートがあちこちに開いている魔術的空間。「自分には選べる世界がいくつもあって、エントリー(硬貨投入)すれば一時的にせよ気に入った世界の住人になれる」ということを漠然と感じとっていたように思います。ちなみにその時悩みに悩んだ末プレイした『サーカス』は1分と持たずにゲームオーバーになりました。

■気持ちだけパソコンユーザーのゲーム小僧


 1980年代の到来とともにギャング・エイジを迎えた私は、友達同士でつるんだり弟を引き連れたりしてゲームが遊べるありとあらゆる場所に繰り出すようになりました。『ルパン三世』『パックマン』などの登場によって『スペースインベーダー』およびそれ以前のゲームが“ずいぶん古くさいもの”に思えるほど当時のゲームの進化速度は凄まじく、それについていこうと必死だった覚えがあります。

※同時期にゲーム&ウオッチなどのLSIゲームにまつわる思い出やエピソードも数多くありますが本稿では割愛します。でもひとつだけ。「学研の『平安京エイリアン』最高‼︎」

 1981年以降はゲームセンターと並行して、ゲームの試遊機が設置された玩具屋・マイコンショップにも立ち寄るようになりました。前者の目的が“ゲームの最前線に身を置くこと”ならば、後者は“タダでゲームすること”。現代の子供たちが基本プレイ無料のスマホゲームをやるように、当時の子供も無料が好きでした。

 マイコンショップで遊べるゲームは絵が丸や四角の組み合わせだったり動きがちょっとカクカクしていました。しかしすでにパソコンを購入した友人の話から「パソコンでプログラムすればタダでゲームを遊び放題(意訳)」ということわかると、ゲームはただ彼岸にある異世界ではなく、自分自身で創出できる錬金術的産物でもあると思うようになりました。そんな素晴らしいことを実現できる機械は手に入れなければならないと心に決めたのが1982年、小学5年生の頃です。

 ショップに並んでいる機械たちは、日々アーケード筐体に小銭をチャリンチャリン入れている無計画な子供にとっては“さわれる絵に描いた餅”。ぴゅう太は良さそうだけど日本語BASICがいまいちパソコンぽくない、M5というマシンがいろんな意味で身の丈に合っていそうだけど代表的な対応ゲームのひとつに『スーパーパックマン』がプッシュされているのがどうも引っかかる……など、高くて(※5万円台)とても買えない現実を浅い難癖で紛らす“酸っぱい葡萄”生活を1年ほど続けた後、私の人生の大まかな方向性を決定づけるハードと出会うことになります。

 SC-3000は、セガ・エンタープライゼス1983年7月にリリースしたホビーパソコンです。本体-キーボード一体型でいかにもすぐにプログラミングできそうですが、実際には別売りのなんらかのROMカートリッジをセットしないと何もできない、空疎な“ガワ”でした。

 そのかわり29800円の低価格ということで、親(貯金を握る母)を説得しやすいのが魅力でした。プログラミング用のBASICカートリッジにはいくつかのグレードがあって、どうせやるなら最上位モデル(RAMのフリーエリアが26620バイトでスプライト関連の命令をサポートしている「LEVELⅢB」)。でも初期投資するには高いので、まずは本体に慣れるため(?)にゲームソフトから……ということで、店頭でさんざん悩んだ末『サファリハンティング』と『チャンピオンベースボール』を本体同時購入しました。駄菓子屋ゲーセンで何度も遊んだ『トランキライザーガン』のコンシューマ移植版として文句のない出来だった『サファリハンティング』にすっかりハマり、じゃあ次はこのゲーム、その次は、なんて具合に新作に手を出していくうちに最上位モデルのBASICカートリッジを買える金額はとうに超え、ゲームを作りたかった少年は徐々にただの“ゲーム小僧”になっていきました。

 同級生に、セガのコンシューマ製品を取り扱っていたカメラ屋の息子がいたことで、自分で購入する以外にいろんなゲームソフトをガンガン借りられた環境も、小僧ぶりに拍車をかけました。『セガギャラガ』の砂を噛むようなゲームプレイ、『ガールズガーデン』のもうちょっと何とかならなかったか感、『ピットフォールⅡ』をクリアーした時の「これぞアクションアドベンチャー!」という至福、『ガルケーブ』の“静と動”のコントラストをリアルタイムかつ濃厚に体験できたのは、プレイしたゲームの感想を書いたりする現在の仕事の礎になっていると思います。

 ほぼ同時期に発売されたファミリーコンピューター(任天堂)のゲームも、友達の家などで遊びました。正直、グラフィックやサウンドの鮮やかさやキャラの動きの滑らかさ、対応ゲームの面白さはゲーマーとして認めざるを得なかったのですが、当時の私はあえて「所詮ゲームしかできない玩具」と思うことにしていました。後にファミリーベーシックが発売された時も「こんなに少ないメモリ容量(※2000バイト未満)ではせいぜいミニゲームくらいしか作れない」「PCG(プログラマブル・キャラクタ・ジェネレータ)機能がないからオリジナリティのある絵作りをできない」など、本格的にプログラムを始める前にもかかわらずパソコンユーザー視点でマウントをとり続けていました。ここでファミコンの存在を認めてしまったら“セガのパソコンでゲーム作り”という自分の選択を否定することになる……そんな切羽詰まった気持ちが、12、3歳の思春期に差しかかった少年を意固地なセガハード信者へと変えていきました。

※そんなファミコンに対する捻じれた思いを、SC-3000の互換機であるゲーム専用機“SG-1000”にも持っていました。「別売りのキーボードを繋げばたちまちパソコンに」というハード思想自体が気に入らなかったようです……ってとんでもない偏見ですが。

■“裏切り”を原動力にゲームプログラマー覚醒


 カツアゲと補導員に警戒しながらゲームセンターに繰り出しつつ、自宅でBeep(雑誌)を読みながらSC-3000のゲームを遊びつつ、小学校までは勉強しなくてもそこそこ良かった学業成績がそうでもなくなってきたことに違和を感じ始めていた1985年のある日。セガの新コンシューマハード「セガマークⅢ」が発売されることを知りました。ゲームソフトの形態はSCシリーズの後期ラインナップで採用されていたセガマイカード(ICカード型のロムカートリッジ。PCエンジンのHuCARDのようなもの)ということで、すでにセガマイカードキャッチャー(SC-3000にマイカードをセットするための周辺機器)を持っている私は安泰だな……と思っていたのですが、チラシや雑誌に書かれた情報をよく読めば読むほど、そうではない気がしてきました。

 いよいよセガマークⅢがSC-3000の上位互換モデルであり、セガマイカードキャッチャー(1000円)にSC-3000の性能を拡張する機能など備わっていないことがはっきりした時、私は中2らしく「裏切られた」という気持ちでいっぱいになりました。SC-3000で遊べる新作ゲームが出なくなることももちろんですが、セガの新ハードがファミコン同様“ゲーム専用機(プログラムも一応できます☆)”として開き直った作りであることが悲しく、許せなかったのです。
 見識不足と貧乏ゆえの言いがかりとはいえセガコンシューマの未来に希望を見出せなくなった中二病はこう思いました。「ならば未来は俺が創ろう。お前(セガ・エンタープライズ)がむざむざ切り捨てた“可能性”でな……!」と。

 カメラ屋の息子からとりあえず借りていたLEVELⅢB のBASICカートリッジを時価で買い取った私は(それ以外のゲームソフトはわりと借りっぱなしだった気が……)、ダイヤモンド社から発行されていたSC-3000用BASIC唯一の入門書をボロボロになるほど読み込み、それまではゲーム情報目当てで買っていた月刊マイコンBASICマガジン誌の投稿ゲームページのプログラムリストを「どのルーチンを抜き出して利用できるか?」という観点で見るようになるなど、オリジナルゲーム制作の土台を整え始めました。

 そして1985年末の冬頃完成したのが、オリジナルゲーム第1弾『アメリカンガンマン』。ファミコンの光線銃対応ソフト『ワイルドガンマン』の画面構成を意識したタイピングゲームで、RAMフリーエリア515バイトの最下位モデルLEVELⅡAでも動くコンパクトな内容でした。なぜ所有しているLEVELⅢ BASICの機能や容量をフルに使わなかったかというと、その時点の技量で完成させられるゲームの規模がそのくらいだったことと、できたものをマイコンBASICマガジン誌に投稿することを想定していたからです。

 当時のマイコンBASICマガジン誌はパソコンの機種ごとに毎号1〜3本のプログラムが掲載されていて、SC-3000は「LEVELⅡ BASIC用」と「LEVELⅢ BASIC用」が1本ずつ掲載されるのが通例でした。一見、それぞれのBASICユーザーできちんとすみ分けられているようですが、実際にはひとりの作者の作品がどちらにも掲載されていたりと、前者が“ワンアイデアのミニゲーム”、後者が“プログラムが長い大作系”の採用枠としてユーザーに都合よく利用されていたのは明白。言い換えれば、完成度よりもアイデア勝負でいけるLEVELⅡ BASIC用の掲載枠は、初歩的な命令でしか組んでいなくてもワンチャン掲載されるかもしれない“おいしい存在”だったのです。

 自信満々で投稿した『アメリカンガンマン』はどうやら不採用。間髪入れずに制作した第2弾の障害物よけアクションゲーム『手乗り文鳥を愛する男』も音沙汰なしでしたが、当時カップ麺のCMソングに起用されヒットした某ロックバンドの曲にインスパイアされて作った第3弾アクションゲーム『ff(フォルテシモ)』が掲載されました。マイコンBASICマガジン誌は、掲載ゲームの全タイトルが表紙に書かれていたので、書店でそれを確認した瞬間は、たぶんすごく興奮したと思います。

 1986年には計2本のSC-3000 LEVELⅡ BASIC用ゲームプログラムが掲載されました。1本採用されるごとに9000円の謝礼(10000円から源泉税10%が引かれた額)を受け取れたのは、貧乏な中学生にとって思いもかけないボーナスでした。「ゲームを通して周囲の狭い活動範囲を超えた世界と繋がれる」「採用された成果物には所定の報酬が支払われ、不採用のものには努力やかけた手間如何にかかわらず何も支払われない」という経験は、これもまた現在の仕事のありかたに結びつくものでした。

 その年は受験生ということもあって、試験勉強が本格化してからはゲーム制作活動はしばらくなりを潜めることになります……といいつつも、完全にゲームプレイ目的で初代MSX規格パソコンを買ったり、当時複雑な家庭事情で同居していた2歳上のいとこの所有物だったファミコン版『ドラゴンクエスト』をこっそり進めてクリアーしたり、学校帰りにゲームセンターに寄って『タイムギャル』をプレイしレイカちゃん(声・山本百合子)の朗らかさに触れ、思春期の自意識過剰な少年に足りないものを埋めていたりと、ゲーマーとしてやれることはしっかりやっていましたが。

後編に続く

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